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心を一つに・・・*ローマ書15章1〜6節


20世紀英国の説教家でロイドジョーンズという牧師がおられました。彼の著作の中でエペソ書の講解から「キリスト者の一致」という素晴らしい書があります。牧師がこの本に大変感銘を受けたことが語られました。パウロはエペソの教会への手紙の中で「キリスト者が一致してゆくように」と何度も語っています。

なぜ教会の中に「一致」が必要なのか。またなぜ聖書が「一致」を乱す言動に対して厳しく記すのか。それは救いは個人的なものであると同時に共同体のものであるからということが語られました。「イスラエル」という言葉は個人のものであると共に、霊によって救われたものすべての人々に対してのものであり、教会は神の前に一つであること。世界中のキリスト教会すべてを一つとして見ているということを知るのです。


❶力ある者は力のないものの弱さを担うべき


力ある者🟰信仰の強い人

力ない者🟰信仰の弱い人

ここで(1節)担うと言う言葉は元々の言葉には「自分のものとして受け入れる」の意味があり、信仰の弱い人の弱さを自分のものとして担うべきである、ということです。


3節に「キリストも自分を喜ばせることはなさいませんでした。」とあります。

イエス様がなぜ受難されたか。苦難を受けられたのか。それは強いものが弱いものの弱さを担ってくださったということであること。


イザヤ53章のみことばです。

「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。

それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しまれたのだと。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷ゆえに、私たちは癒やされた。

私たちはみな羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かっていった。

しかし主は私たち全ての者の咎を彼に負わせた。」


イエス様は苦難のしもべとなってくださり、苦しみを一手に引き受けてくださったのでした。


語られて改めて気づきましたが、イエス様は公生涯の中で多くの奇跡をおこなわれましたが、自分のために成されたことは一つもありませんでした。全て、人々のため、です。

5000人の給食の時も、ついてきた人々を見て帰りの途上でお腹が空いて倒れてしまうかもしれないから、と弟子たちに食事を用意せよ、と言われました。「わたしのために食事を用意せよ」ではなく・・・。


自分を喜ばせることをなさらず、常に人のことを気にかけ、与えることに心を注がれたイエス様。信仰という賜物は、それをいただいた強い者が、それを持って他者に仕えるために与えられたものであり、その力は誇るためでなく、信仰の弱い者のために用いるべきこと。


そして聖書は「与える」時に、逆に喜びが与えられる、と語るのです。

ルカ6章38節「与えなさい。そうすればあなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すっていれたり、盛り上げたりして、気前よく量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」

与えるということの豊かさを思います。。。


❷聖書の与える忍耐と励ましによって


キリスト者がどのように一つの共同体として「一致」を保つことができるのか。

それは「忍耐」によるのだと語られました。先週のメッセージでも、自分には祈りと忍耐が足りないのだと心刺されましたが、しかし、この忍耐と言うのは、自分が耐えようとすることではなく、「神のお言葉である聖書こそが私たちに忍耐を与えてくださるのだ」と聞き、心が軽くなりました。


パウロ自身もその伝道者生涯の大半は投獄により不自由を余儀なくされ、多くの忍耐を要したことと思います。しかし、彼は神様ご自身が与えてくださるみことばによって忍耐と励ましを頂いたのでした。


神様は私たちの置かれている状況を誰よりも一番ご存知で、永遠のいのちの観点から、それを理解し、良い時に必要を備えようとされている。だからこそ、私たちは神様のお言葉をしっかり握り、神様がくださる約束に立っていく。そのような中で「一致」が与えられてゆくのだと。


❸神の栄光のために

信仰の強い者が弱い者を受け入れてゆくと言うことを手紙で語りながら(6節)パウロの中で、それがやがて祈りの言葉となって表されていきます。

「そうして、あなたがたが心を一つに、声を合わせて私たちの主イエス・キリストの父である神を褒め称えますように」と。


イエス様は地上での生涯があと少しという時にこのように祈られました。

「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、全ての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17章21節)


最後にイエス様が十字架までの道を歩まれる時に、お弟子たちはどうしていたのかというと、いつも「誰が一番偉いか」で揉めていました。。。。

イエス様はそれをよくご存知の上で、「一致する」ことを語られたのでした。


初代教会の上に素晴らしいみわざが起こったのは、彼らが「心を一つにして」主に祈っていたからです。共同体が心を一つにして、主に期待し祈る時に、神様の力強い働きが表されてゆくことを知るのです。


もしもそこに陰口や不満、つぶやき、批判があるなら、神様の可能性を打ち消し、神のみわざを台無しにしてしまうということ。

それゆえに私たちは使徒の初代教会を目指し、そこに戻るべきなのです。


心を一つにして主の御名を褒め称えるということ。それは努力ではない。

また「一致」は作り出すものでもなく、すでに主から与えられているものを、しっかりと意識しながら保つことであると知らされました。


それゆえに「一致」を壊そうとするものを主が取り除き、共同体を主の憐れみのうちに愛の群れとして成長させてくださるようにと思わされたことでした。主に期待しつつ・・・。


「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」エペソ3章21節


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