礼拝に、東京基督教大学学長である山口陽一先生をお迎えして、ダニエル書9章1節から19節を通して「荒れ果てた聖所に御顔の光を」と題してメッセージをいただきました。
ダニエル書9章の1節に「メディア族のクセルクセスの子ダレイオスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主の言葉によって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が70年であることを、文書によって悟った。」とあります。
このみことばが、大変なニュースであることに気づかされ、驚きを覚えました。
おそらく15歳くらいの少年であったであろうダニエル、シャデラク、メシャク、アベデネゴは、イスラエルの先祖たちの罪ゆえに、捕囚の地バビロンに連れてこられ、それから約65年もの歳月が過ぎていました。非常に優秀な少年であった彼らは今やバビロンの地で、選り抜きの大臣として重宝され、王に仕えていましたが、その間、
この異国の地で、異国の風習や偶像、王を拝まないということで、獅子の穴に放り込まれたり、熱い炉の中に投げ込まれたり、罠にかかったり、苦しいことの連続、戦いの連続でした。その間も彼らの信仰は少しもぶれることなく、真実の唯一の神様だけを信じ、他のものを神としないという神への愛を貫き通したのですが、それは、このバビロン捕囚を招いてしまった理由がイスラエルの先祖たちが、神様を畏れず、神様を悲しませてしまったことによることであることをよく悟り、悔い改めることへ日々導かれていたからに他なりません。
その彼らを、火から、悪者の策略から、そして獅子の口から守り育て続けられたのは、他の誰でもない、唯一の神、主でした。
この彼らが、今や80歳にもなろうとしている時に、このバビロン捕囚があと数年であることをエレミヤの預言書に見つけ、知ったのです。それが、パピルスに書かれていたか、羊皮紙に書かれていた文書か、ドキドキしますが、その書物を手に入れて、興奮したダニエルの姿を、先生の語ってくださるみことばから、想像しました。
エレミヤ書29章10節
「まことに主はこう言われる。『バビロンに70年が満ちる頃、わたしはあなた方を顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。ー主のことばーそれはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
さらに驚くべきことに、ダニエルがこの預言書の文書を見つけ、バビロン捕囚がまもなく終わることを知った時に、彼のしたことは、「あー!よかった!やっと終わるぞ!」と喜んだのではなく、おそらくほぼ面識もなかった先祖たちの主への背信の罪を自分のものとして深く悔い改め、断食して主に祈ったことでした。父祖たちの罪がこんな悲しい70年も捕囚を招き、ダニエルたちはむしろ被害者と言っても過言ではありません。しかし、ダニエルはこの罪を自らのものとして、主の前に悔い改め、また主の恵みと憐みを深く感じているのです。
この苦しい捕囚期間の間、ダニエルたちは、父祖の罪を深く悔い改める日々を送りました。神を本気で愛さなかった罪。それゆえに、神の声に聞き従うこともせず、他の偶像にたなびき、揺らぎ、どっちつかずの状態を平気で行なっていた民でした。
たとえ獅子の穴に入れられることになっても、熱い火の炉に投げ込まれたとしても、これだけは絶対に譲れない、主だけを愛するという固い信仰に僅か10代のこの少年たちが、80歳になるまで、立ち続ける事ができたのは、まさに悔い改めの実の結実であり、生き生きと働いて、在て在る真実の神への誠実な応答でした。その中で彼らは神の大きな憐みを体験してゆくのでした。
先生のメッセージの中で、先生の属される同盟教団が130年の歴史をもち、ことに、戦後75年を迎えその間ずっと立ち続けている悔い改めについて触れられました。
一つは、神への愛の欠如。神を本気で愛さないがゆえに生まれる偶像礼拝。もう一つは人への愛の欠如。それが、過去の戦争協力にも繋がったことを踏まえ、聖書が教える「心を尽くし思いを尽くし力を尽くしてあなたの神、主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この聖書の二つのみことばにすべての律法が凝縮されていること、これが欠けていたことを悔い改めて常に聖書に立ち返る、そのような信仰が神の栄光を表すということをもう一度示されました。
「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを
主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。詩篇27篇4節 」聖書
感謝します❣️❣️❣️
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