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信仰の目*第一サムエル記17章38〜58(8/15)

更新日:8月26日


ユリのお花が素敵です😍ズームにて礼拝を守りましたが、明るい色に心和みます。💓

礼拝は「この戦いは主の戦いだ」と題して第一サムエル記17章38〜58節よりメッセージ。


有名なダビデとゴリヤテの戦いの箇所です。巨体ゴリヤテをダビデは恐れなかったのか。

ダビデはゴリヤテを人として見るより、羊飼いにとっての野獣と同じように見ていたのだろうと語られました。羊たちを見守る中で、時に羊を狙ってくるクマや獅子、狼です。ダビデはこれらの野獣との戦いに杖や石を持って勝利してきました。ゆえに彼は恐れる必要がなかったのです。必ずゴリヤテを倒すことができる!と。


私たちは目👁を通して映るものを脳で判断します。それは強いのか弱いのか。益か否かとこの目で瞬時に判断するのです。イスラエルの民は、目に映ってきたゴリヤテ、百戦錬磨・筋肉隆々の巨体を見て恐れました。

しかし、ダビデはちっとも怖気付いていない。獣(けだもの)と同等に見ていたのです。


なぜか。ダビデは肉体の目👁と同時に、信仰の目を持ってゴリヤテを見たのではないか。

そう語られました。

私たちの目は地上のものを捉えます。しかしそれらのものは、時に、信仰的な歩みをすることに役に立たないのです。まず信仰を持つ。そしてその信仰を通して見る世界を知る。

目で見えるものと信仰の目で見えるものが違って見えることが時々あるからです。

常識は私たちの目で見えます。耳から入ってくるものもそうです。しかし、信仰を働かせていくときに常識というものについても考えさせられます。


「神が私たちを通して、この働きをされる」という確信が与えられるなら神がその人を押し出して働きをされるということを忘れてはいけない。



32節でダビデは恐れずに「あの男のために誰も気を落としてはなりません。このしもべが行ってあのペリシテ人と戦います。」と言っています。

これに対して周りの反応はどうであったかというと、33節で、サウル王はまず無理だろうと言うのです。しかし意志の変わらないダビデに対して37節において「行きなさい」といい、38節を読むとサウル王が、戦いに行く者としての当たり前の装備をしようとしている様子を見ることができます。ダビデは戦いの訓練もしたことがない。ましてや鎧を着たこともなく、槍も使ったことがない。


ダビデは鎧を脱ぎ、戦場へと向かっていきます。重装備のゴリヤテに対して日常の服装で戦場に立ったダビデ。ダビデはこの時何を心の支えにしたのだろうか。想像します。

私たちは自分の力を超えるものを前にすると怖気付いてしまいます。十分に力を発揮できないのではないかと。しかし主である方を見上げていくということ。


背後で働かれる主を信じ、委ねて行くことが問われているということを思わされます。

私たちは目の前にあるものを見ていると罠にかかってしまうのです。しかし、主を見上げ、信頼するものは進むことができる!主の御名を呼び求めるものは!大きな励ましです。


42節においてゴリヤテはダビデを蔑みました。そのゴリヤテに向かって45節でダビデは大胆に自分の勝利を確信して、戦う前にそれを宣言告白しています。ゴリヤテは剣も槍もある。しかしダビデにとっての最大の武器は「万軍の主の御名」なのだと。名は本質を表すと語られました。主ご自身が戦ってくださり、私はそこに用いられる者なのだ、と。


詩篇20篇7節のみことばが開かれました。

「ある者は戦車を ある者は馬を求める。しかし私たちは、

私たちの神、主の御名を呼び求める。」

私たちは計画する時に、優れた道具を求めます。

しかし主なる神を信じるならば、有能なものでなく、主の御名を求めるべきなのだと。


このダビデに勝利を与えられた主は同じように、私たちの戦い一つ一つをよくご存知で

主を求めるものに必ず勝利と最善を成してくださる方であることを覚えます。

みことばに感謝しつつ・・・。




「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配・力・この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。エペソ6章12節  聖書」



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