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「バングラディッシュ医療宣教師」*使徒の働き13章1〜3節

更新日:2023年9月20日



今朝はバングラディッシュにおいてドクターとして医療宣教師の働きをされている近藤宣教師をお迎えし現地での働きについてお話を聞くことができました。スライドを用いて現地の様子や病院での状況も詳しくお話下さり、限られた設備の中での治療や手術。貧困・課題の多い場所に遣わされ生き生きと働かれている宣教師の姿を知ることができました。

みことばは「わたしのために」と題して牧牧師。使徒13章より。


❶アンティオキアの教会の成長


バルナバとパウロが海外宣教へと派遣されるところです。(1〜3節)

11章19節をみますとアンティオキアという名前が出てきます。エルサレムでキリスト者たちへの迫害がありステパノが殉教の死を遂げました。

迫害の火はさらに燃え上がり、エルサレムにいた弟子たちも危険を感じ、各地方へと逃れて行きました。これがアンティオキアの教会が建て上げられ宣教がスタートした背景でありこのような形でも「全世界に出てゆき、すべての造られた者に福音を伝えなさい」というイエス様の大宣教命令の通りにみことばが広げられていったのです。

アンティオキアで教会が生まれた知らせがエルサレム教会に届くと、彼らはそこにバルナバを送り、アンティオキア教会は堅く建てられて行きました。やがて迫害に苦しむエルサレム教会に救援物資を送ったり、宣教師を送るほどに成長しました。

条件が整っていて教会が大きくなって行ったのではないのです。迫害や殉教が厳しい中、人ではなく神様によって強く大きく成長して行ったのです。


アンティオキアの教会はまた、多種多様な人が集まっていた教会であったことが1節を見るとわかります。ある一定層ではなく、老若男女、貧しい者・富む者。権威ある者ない者。そのような兄弟姉妹が、唯一キリストの救いによる永遠の命をもつ者同士のお互いを尊重し、キリストの愛にあって一つとなっていました。実に爽やかな風の吹くゆるし合い愛し合う教会でした。

 キリストの十字架により神との関係が修復されると、横の関係、つまり人間関係が改善します。互いが互いを受けいれ、そこに和解が生まれ隔ての壁が打ち壊されるのです。「かしらであるキリスト」を見上げキリストの愛一つによって整えられて行ったのでした


私たちは、自分の考えに固執するときに皆「私の教会」を作り上げようとします。自分にとって居心地が良いかどうかということが大切になり「閉鎖的な教会」となってしまいます。しかし、このアンティオキアの教会に集められた人々は「開放的な教会」でした。聖霊が豊かに働かれる「神の教会」として築きあげられることに心を注いだ教会だったのです。結果、神のみわざが目にみえる形で広げられて行ったのでした。


❷神のために



2節に「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。」とあります。

アンティオキア教会ができた時。初代エルサレム教会の執事であり信頼に篤いバルナバが派遣されることになりました。彼はタルソに引っ込んでいたパウロをヘッドハンティングし、共にアンティオキア教会のために遣わされたのですが、今度はこの二人がアンティオキア教会から離れて海外宣教へと遣わされて行くことになった訳です。

教会の成長のために尽力した二人がいなくなってしまう・・・と教会は残念に思ったでしょうか。いえ。彼らは神の言葉に応答し喜んで「彼らを遣わす」決断をしました。

ここには元々の言語において助詞が使われているのだと語られました。

つまり、アンティオキアの教会の中では、神が語られる前から世界宣教への思いが熱くされ「神よ。どうか、私たちの教会から世界のために人を遣わしてください」と祈っていたのではないか、というのです。

アンティオキア教会は大きな恵みに預かったゆえにイエス様の大宣教命令に従い宣教のために用いられる教会へと成長したいと願っていたのです。


決して「規模が大きいから」「人々で溢れているから」宣教師を遣わすのではなく、祈りの中で、主の御心を知る中で「どうか私たちの中から、宣教のために人を遣わしてください」という祈りに導かれていた。そして、礼拝の中で、神が「誰か」を示されたのです。

アンティオキアの大切なリーダー2人。「バルナバとパウロを遣わしなさい」そのように神様が言われたときに、ずっと祈ってきた彼らだからこそ「はい。神様。わかりました」と従うことができたのだと語られました。


「人の思い」か「神の思い」か。神さま、神さまと言いながらどんなに御心を示されても「それはできません」という人がいます。神様がいざ示されたときに選択肢を前にして、しっかりと理解し選び取ってゆくこと。「N o!」と言わないところに立ち続けるということ。

「御心を知る」ことは、実はその前から始まっていることであり、時に御心は私の思いとかけ離れていることが多いのですが、神の御心が示された時に、それを選び取り従うことができるか。私たちは今この時から祈ってゆかねばならないのです。


そして忘れてはならないのが、この御心を、神がいつ語られたのか。ということです。

2節に「彼らが主を礼拝し、断食していると」と記されています。この13章2節にきて、使徒の働きの箇所で初めて「礼拝」という言葉が出てきているのだと語られました。

まさに、神の御心に集中している時。礼拝している時に神が語られたのです。

礼拝している時というのは「神は私に何を語ってくださっているのか。」そして「そのみことばに従います」と全神経を集中させ聞いている時なのです。

彼らが「海外宣教に私たちを遣わしてください。誰ですか?」と祈るその真ん中で神が語られたのです。断食している時、とあります。満たされている時よりも、飢え乾いている時です。

求め方が違います。飢え乾きのある時に、不足の時に、私たちはどうしたらいいのですか、と真剣に求めるのです。アンティオキアの人々の礼拝はまさにこの状態であり「神さま語ってください、教えてください」と主の御心を求めて自分よりも教会、と心を一つにして神に祈ってゆく、そのような麗しい教会だったのでした。


❸断食と祈りによって


3節にアンティオキアの教会の決断が記されています。「そこで彼らは断食をして祈り、二人の上に手を置いてから送り出した」

この手をおいて祈るということは、特別に神の憐れみ・祝福を祈るのと同時に、私もあなたと共にいて重荷を負いますという意思表示でもあるのだと語られました。

「ああ、いくんですね?」というのではない。「あなたを支えてゆきます」と彼らは断食して祈ったのです。主の働きにつく働き人は孤独です。主が共にいてくださいますが、大きな試練や孤独の道を通らされるのです。ことに宣教師の働きは、未開の地で同国の人がいない中でも一人で働きを進めてゆかねばならない、そのようなこともあります。それゆえに教会が、送るだけでなく、祈りを持って必要を支えてゆくことが非常に大切なことなのだと語られました。


 友人の宣教師がいました。彼女はフィリピンの奥地で現地の人々に仕えてゆく時に、日本人であることを忘れるほどに、精神的にも体力的にもボロボロになるまで働きました。そして帰国してきた時に疲れ切ったその姿を見て本当に涙が溢れそうになりました。厳しいそのような環境に直ぐに戻らずにもう少し休んで行ったらと声をかけた時に「自分を送り出してくれた教会、支援してくださっている教会の祈りがあるから」ともう一期、また出かけて行かれたのです。

またある宣教師一家のことが語られました。インドネシアに家族で遣わされた宣教師が川で移動しているときに嵐に遭い、舟が転覆し、生まれたばかりの赤ちゃんを含め全員が川に投げ出されてしまったそうです。もうダメか、と思ったその時。自分を送り出してくれている教会の人々が祈っている姿が目に浮かび「私たちは祈っています、祈っています」という声が聞こえてきたような気がして、励まされ、岸まで泳ぐことができ、神様の憐れみによって家族は助かったのだということでした。


日本から世界へ多くの宣教師が遣わされています。

また世界からも日本に多くの宣教師が遣わされてきました。

私たちはどれほど真剣に宣教と宣教師のために祈っているだろうか。

アンティオキア教会のように真剣な祈りを持って宣教師を支えてゆきたい、そのように願わされたことです。



「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。エペソ6章18節 聖書」


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