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仕切り*第一サムエル記4章


礼拝は「栄光はイスラエルから去った」と題して第一サムエル記4章よりメッセージ。


ハンナの祈りとエリの預言の言葉の後、サムエルは誕生し、乳離れしてから祭司エリの元ですくすくと育ち、イスラエルの預言者として召され用いられてゆきます。

この4章においては一度も、サムエルという名前は出てきません。6章に至るまで、この3章間にはイスラエルの霊的な状況が語られており、彼らの不信仰がクローズアップされています。7章においてサムエルの本格的な神の人としての働きが始まりますが、その前に、イスラエルがどんな状況であったか、またそこから私たちに主が問うておられることは何かを学びます。


❶神様は侮られる方ではない。

2節において、「戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約4千人が野の戦場で打ち殺された。」と書かれています。神の民が4000人も死んでしまった。

リーダーである長老たちはこぞって話しあいます。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。」と。

長老たちは、その原因が神の臨在がなかったことによると考えます。


私たちも、神に愛され、支え生かされ、災いから守られるだろうと考えます。しかし、現実では様々な災害や思いがけないことに見舞われることがある。あれ?神が守ってくださるのに?なぜこのようなことが?と問いかけることがある。この主への問いかけは良いことであります。なぜなら、そこに神との対話が生まれて来るからです。


私たちは神を信じたら何の試練もなく、自動的に幸せハッピーな道を歩むということはない。神を信じ、神と共に歩む道を行くときに、そこにある試練を通して神は対話を、神との個人的な関係を深めてゆくことを、私たちに求めておられるのです。

なぜですか?と聞くときに神は必ずその声に答えてくださる。私たちはこのような主の応答を聞きながらダイナミックな生きた信仰を持ってゆくように導かれてゆく。


「神はどのように、あなたに働きかけてくださいましたか?」と聞かれて「あら。そういえば、いつ主は語ってくださったかな・・・」と、言葉に詰まってしまうとしたら、それは悲しいことです。

「10年前に、昔・・・こうでした・・。」そんな過去にしてくださったことのみでなく、「昨日は・・でした。」「今日は・・・でした。」と、私は神にあって生かされている者であるという生き生きとした証。日々主との語らいの中で深められてゆく信仰生活は輝いている。


そういう訳で、長老たちの反応は良かったと言えます。しかし残念なのは、この長老たちは、神の声を聞かないのに、これが神の方法だと勝手に思い込んで、

「主の契約の箱がないから負けたのだ。」という結論に至ってしまったことです。

神のみ声を聞かずに、彼らの中で思いのままに解決を見出してそれを実行に移してしまった。


長老たちは言います。「シロから主の契約の箱をわれわれの所に持ってこよう。そうすればその箱がわれわれの間にきて、われわれを敵の手から救い出すだろう。」と。

イスラエルの民が、「契約の箱」を偶像化して、神ご自身に目を向けず、神の箱という「物」に頼り「契約の箱があるなら勝つ。なければ負ける。」というようなお粗末な信仰に陥ってしまっていた状況を知るのです。




旧約・新約を通して聖書が一貫して語るのは、「神、共にいまし」です。常にともにいてくださる主です。私たちがそれを感じられるか否かは関係ない。ローマ8章の語るように、内住してくださる御霊。神は全世界を治められる方であり、小さな箱などに収まられる方ではない。しかし、リーダーである長老たちを含めた彼らの信仰はこのようだった。

民は神を「ご利用」し、今、ちょっと働いてください。来て下さい。でもいつもはシロにいてください。と、まるで困った時の神頼み・・・。


祈祷会についても語られました。信仰生活の根幹である礼拝と祈祷会を守ることの大切さ。

神は侮られるお方ではない。私たちの都合で調子良くご利用するお方ではない。窮地に陥ったときにのみすがるのでなく、常に神に聞き従い、主の前に優先順位をしっかりと守りゆくこと。


第一サムエル記7章の3〜4節を読むと、イスラエルの民が十戒を破り、神の民と言いながら、偶像礼拝をしていた・・ということが書かれています。神に仕えると言いながら、神よりも仕事、人、富を大事にして仕えていないか。


イスラエルの民にとって、自分の信仰・あゆみを反省し悔い改めるべき時であったのに、神も何が神の働きを妨げているのかを気づかせたいとそう思われていたのに、「神の箱さえあればいいや」といった状態。

4節ではこの契約の箱を運んできたのは、主への捧げ物を侮っていたホフニとピネハスであることが書かれ、それにもかかわらず、5節で民はそれを見て大歓声をあげたと書かれているのです。非常にいい加減な霊的に低いレベルにあることが分かります。


私たちも、自分と神との関係を省みること。神と話し、神に聞き、御手を感じる、そのような信仰生活を失っているとしたら、気づきを与えられる必要があること。

神は決して人間に侮られるようなお方ではない。


❷神を軽視するならば、祝福もない。

18節において、このイスラエルの民が戦いに敗れた結果、契約の箱がペリシテ人によって奪われたこと、神の臨在を表す神の箱が奪われ、あまりのショックに祭司エリが死んでしまったことが書かれています。さらに、エリの息子ピネハスの嫁に陣痛が起こり、子どもが生まれるが、彼女は神の箱が奪われたショックで、子どもに「栄光がイスラエルから去った」という意味の名前をつけ、この言葉を繰り返すのです。(22節)


ペリシテ人は戦利品として、神の箱を奪い、自分たちの偶像ダゴンを祭る神殿に持っていきます。全能の神ご自身が神の箱が奪われることを許され、ご自分の御名が一時的にでも汚されることを許されたということ。


全世界において、今、キリスト教圏といわれる国で信仰が失われている状況を見ます。ヨーロッパの国々の信仰が形骸化して、かつては素晴らしい信仰を持って作られた立派なステンドグラス、後世に信仰が続くようにと願って建てられた大聖堂も、美術館やアミューズメントパークと化し、あるいはイスラム教の寺院に売られたりと、礼拝でなく人々の遊びや趣向のために変わり果ててしまっている悲惨な現状を見るのです。しかし、神はその会堂を滅ぼすのでもなく、その状況を許し残しておられる。これはどういうことだろうか・・。


私たち自身の信仰についても考えさせられました。名ばかりクリスチャンとして信仰が形骸化していないだろうか。自問自答し、悔い改め、神との深い交わりのうちに、神の民、神の栄光を表す世の光・地の塩として小さくても光り輝き続けること。神様が願っておられること・・・。


❸神は回復を望んでおられる。

7章3節において神様はこの敗北の後、サムエルを通してイスラエルに霊的な回復を与えようとされていることを見ます。


敗北を通して一時的に懲らしめを与えられたが、憐み、慰めを持ってイスラエルの上に臨みイスラエルはやがて神との関係を回復してゆくのです。

一方、悔い改めのチャンスが与えられていたのにそれを頑なに拒んだホフニとピネハスは預言通りに裁かれました。神は忠実に裁きを行われる方であり、侮られる方でないことをここでも見ます。


私たちは、主がどんな御心を私に持っておられるのか。祈り、主に聞くときに示されたことを避けてはいけない。放っておいてはいけない。それは主の怒りを自分に招くことでもある。



イザヤ59章1〜2節のみことばが心に刺さります。

咎が神との「仕切り」になっている、と。

神の祝福を受けていないのなら、神が祝福できず、祈りを聞いていないのではない。

私に何らかの罪があると気付かねばならない。そして悔い改めねばならない。


屋根の樋に大きな石が詰まっていれば、私たちはすぐにそれを取ろうとします。

しかし、小さな埃やらゴミやら葉っぱや髪の毛でそれが詰まってしまっていることがあります。それで水の流れを止めてしまうように、私たちも自分で気づかず、またわからない罪があり、祝福を止めてしまっていることがある。主に気付かせてくださいといのり求めつつ

主の前に「仕切り」を取り除いていただく必要があること・・・。


献金の祈りで第一礼拝のA兄が「知らず知らずのうちにおかしている気付かない罪を赦してください。気付かせてください。」また第二礼拝のC姉の祈りでも「神様。こんな私をごめんなさい。」と祈られ、その言葉が心に尊く響きアーメンと共に祈ったことでした。


神の前に自省し「仕切り」を取り除き、主との深い語らいを求め、御声に聞き従い、行う。そのような日々の積み重ねが、どうか与えられますように・・。


「思い違いをしてはいけません。神は侮られる方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。               ガラテヤ6章7−8節 聖書




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