神を信頼する*ルカ6章37・38節
- nycc-jesus
- 2020年12月28日
- 読了時間: 8分
更新日:2022年2月15日

今年一年も、大変な中、主の守り・恵みがありました。感謝します。そして、来たる新年が主によって、癒され、憐れみによる導きがあるように祈ります。
さて。2020年最後の礼拝、今日のメッセージは、ルカ6章37節・38節より「さばいてはなりません」と題して語られました。
クリスマス前まで語られてきた平地の説教に続くみことばですが、神の憐れみを知り、そこに生かされるあなたは、敵を愛し、またさばいてはいけない、という主のお言葉です。
❶さばくという言葉の意味について
それは、相手の理非を明らかにしてはいけないという意味ではありません。聖書を見る時に聖書の神は、愛の神と同時に裁きをなされる神であることを私たちはみます。そして、みことばは、「人には一度死ぬことと裁きに合うことが定められている」とあるように、私たち全ての人間は、死後、神による裁きがあることを明確に語っているのです。
人がなぜ、死を恐れるのか。それは、死後に自分の人生の総決算が成されることを知っているからです。自分の全ての罪が最後に明らかにされます。サタンがその全ての事実の詳細を神の前に提出・告発するのです。
米国の神学校のコール師という教師がおられました。その先生がある時にこんな夢をみられたそうです。夢の中で、死後、コール先生は天国に向かって歩いていました。暫くすると向こうから、一人の人が歩いてきました。よく見ると、それは舟喜順一先生(牧牧師の神学校の創始者)でした。コール先生は思わず「舟喜先生、もう1度伝道するために遣わされたのですか」と声をかけました。すると舟喜先生は「いえ。自分の罪を書き出すためにチョークが足りなくなったので、取りに行くんです。」と返事された、そんな夢だったそうです。
私たちは生かされている間に、自分が覚えていることから覚えていないことまで全ての罪をサタンによって、責められます。わたしたちがどのような生き方をしてきたかが明らかにされて、それに対する正当な評価を受けることになるのです。
しかし、イエスを主と告白し、唯一の罪よりの救い主、贖い主と信じた者には、イエス様が弁護士として真ん中に立ってくださり、とりなしてくださり滅ぼされないという約束が与えられていることはどんなに恵みなことでしょうか。
ここで、イエス様が死後の裁きについて語られていることを見るときに、イエス様がご自身がさばくことを禁じるということは考えにくく、この「さばく」という言葉は、間違った類のことについて語られていることがわかります。また同時に、この言葉が、ある問題について自分なりの主張を持ち、一つの判断を下すことを禁じているのでないことも重要です。
今日の教会は批判的な言葉を否定するような風潮が広がっているということを指摘された先生がいます。それは、教会が居心地の良い場所・癒しの場所を目指そうとして、なんでも許容される空間となってしまい、それに留まらず、みことばまでも、罪でなく励ましと勇気をもらえる説教を!とそのようなニーズに応えようとする教会へと変わってきてしまっているというのです。
聖書は、教会について、いつも正しい判断・真理を主張していくべき場であることを語っています。ポストモダンの時代です。真理がないという前提で、その人が真理だと思うことが真理となり、神が、牧師が聖書を通して何を語ろうと、自分の見方・価値観が正しいのだという、そのような危うい時代にあることを私たちは意識し、常に主のみことばに立ち返らねばなりません。
教会の歴史を見るときに、教会はいつも、正しいことと間違ったことを識別する戦いを続けてきた群れであることを覚えます。
これを指摘された先生は同時に、近頃の教会が戒規を行わないことにも危惧を示されています。すなわち、正しい判断をせず、なんでも寛容に受け入れようとすることは、主の前に正しいことではなく、罪を犯してしまった人に対して悔い改めを求め、神との健全な交わりに戻るために、一定の期間を持って戒めることは重要なことであり、
イエス様はこのような正しいさばきを否定されておらず、むしろ必要とされているということです。
さて、それでは、イエス様がここで、「さばいてはいけない」と言われた、「さばく」とは何を指すのでしょうか。この言葉の元々の意味には、「ある問題について色々考えていき、一つの結論に到達して、決断に辿り着く」その一連の行為をさしており、その「さばく」行為は良くも悪くもないものです。
しかし問題は、「良いさばき」をするには、良い考えが必要であり、
その動機と過程が悪ければ、「悪い裁き」となってしまうことです。
「悪い裁き」は、判断が性急で軽率であり不公平・偏見があり、自分の判断のみでことを決めてしまいます。自分は他の人よりも優れいていて、良い判断をできるという自信と優越感で判断してしまいます。そのような人の特徴は、
人のあら探しをして、口うるさく、常に批判的な態度を取る、というものです。
そこには、イエス様が言われている人に対する思いやりや憐みの心はなく、他の人を指摘していいことをしてあげたという態度があります。
これこそが、イエス様が、禁じられている「さばきの態度」であると語られました。
❷神の憐みを知るものが取るべき態度
37節には、「さばいてはいけません」につづき「不義に定めてはいけません」という言葉が出てきます。この不義に定めるとはさばくという言葉に連動している行為です。
人をさばけば、そこに出てくるのは罪であり、それを人に伝えたりして、人を不義に定めてしまいます。もし憐みを持つなら、人を不義に定めることはなく、行き過ぎた批判的な精神はそこにないのです。
そして次に「赦しなさい」とイエス様は語られました。
前の二つの言葉とは違い、積極的な表現です。さばかない=ゆるす、ということです。
個人的に受ける侮辱や攻撃に対して、赦しなさいと主は言われているのです。
最終的な裁きは主が成さるから、相手を赦しなさい、と。これがイエス様に従う弟子の生き方の真髄であります。
最後にイエス様がここで言われたのは「与えなさい」ということです。
神の憐みの中にあると知るなら、ゆるすだけでなく与えるということまでする、と。
神の憐みは広く、深い。そのことを覚えます。
私たちが神にしていただいたことを理解せねば、私たちは決して与えることはできません。
神が世を愛し、一人子を与え、十字架につけられたこと。3年半も寝食を共にした弟子たちにも裏切られ、十字架にかかられたイエス様から出てきた言葉は、「父よ。彼らをお赦しください。」
まさにこれがキリスト者、イエス様の弟子としての姿、特徴です。与える、それはイエス様の特徴であり、欲しいという人には気前の良い与え方をされるイエス様、神様の特徴であるのです。
❸私たちが主のお言葉を行なった時に、どのような結果が生じるのか。
38節の最後に
「あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」とあります。
私たちが他の人に対して、どのような態度で生きたかということが、将来の神様からの報いを左右することになると言われています。人に気前よくするなら、神様も気前よく与えてくださる。神様は私たちが人にしたように、私たちに対して成されるということが語られているのです。
さばくな、そうすればあなたがたもさばかれない
不義に定めるな、そうすればあなたがたも不義に定められない
赦せ、そうすればあなたがたも赦される
与えよ、そうすれば、あなたがたも与えられる
イエス様の弟子として歩む時に、私たちは本当の同情によって人を赦し、気前よさを保ち、主に従っていくことができるのです。
私たちは、自分の発しようとしている事柄に関して、これは本当に主の憐みから出ていることなのか吟味する必要があります。そして、神の裁きの座を常に意識することは大きな助けであることを、みことばを聴きながら思いました。
福音書の中にあるタラントの例えが最後に語られました。
タラントとは、人が一生働いても稼げない相当な財であることが聖書に記されていますが、

主人からそれぞれの額を預かった三人のしもべのうち、二人は一生懸命働いて、主人を喜ばせ、褒められ、倍のものを委ねられました。ところが、一人は主人を恐れ、主人の願いに反してそれを土に埋めてしまい、叱られ、持っているものまで取り上げられてしまいました。
この違いは、主人である神様の捉え方でした。主人は預けたものを精一杯用いていくなら
結果がマイナスであったとしても評価してくださる憐れみ深い方であると思うか。あるいは
少しでもヘマをすれば、それをもってさばく主人だと思うのか。
それによって私たちの生き方も全く違ってきてしまうのです。
神様は、私たちを通して、この暗闇の世に、光・地に塩気を与えようとされています。恐れないでちゃんと見ていてくださる神様、赦し、与えてくださる神様に信頼して、
その神様を意識し、キリストに似たものとして近づけてくださる主に期待することが求められています。
神様は報いてくださる方。褒めてくださる方。いつか、その主に会うことを覚えつつ、
与えられた地上の生涯を歩ませていただきたいと思わされました。
今年もいつも共にいて守り導いてくださった主が、2021年も祝福で満たしてくださいますように。。。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求めるものには報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」 ヘブル11章6節 聖書
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