アドベント2週目。
ルカ6章31〜36節より「あわれみ深いものになりなさい。」と題してメッセージ。
31節のイエス様の言葉「人からしてもらいたいと望む通りに人にしなさい。」というみことばは、ゴールデンルール「黄金律」と言われるキリスト教倫理の原理であります。
私たちは、日本でも世界でも、一般に「自分がされて嫌なことは、人にしない」ということを幼い頃から教えられます。それは人間関係を立て上げてゆく上で大切にしなければならないルールです。ここで、イエス様が教えられていることが、この一般の言葉と少し違うところに注目します。それは、否定的な言葉でなく、肯定的な言葉に言い方を変えられているということで、この命令を通してイエス様が新しい意味を持たせられたことに気づくのです。ここから学ぶことが3つあります。
①まず、「愛とは何かをすることである」ということ。
私たちは、「〜してはいけません」と言われていることをしてしまった時に、非常な罪悪感を持ちます。ところが「〜しなさい」と言われたことをしなかった時は、そのような罪悪感はさほど持ちません。「聖書にこう書かれてあります。こう生きましょう。」と礼拝で語られたことに応答・適応できなかった日々を反省するかというと、なかなか反省するということには至らないのです。しかし、聖書のみことばには、
「成すべき良いことを知っていながら、行わないなら、それはその人には罪です。」ヤコブ4章17節 という厳しい言葉があります。
人間関係において、例えば、夫婦間であっても、親子であっても、あるいはその他においても、「自分にしてもらいたいことを、相手にしているか」と問われたときに、主がわたしに示されたこととして真摯に受け止め、従うことは大切なことだと示されました。
約2000年前に書かれたこの聖書は、決して古いものではなく、全て新しい生きた教えです。神様がこうせよと語られている書です。人間は元々の性質は変わらず、普遍的なところに、主は語りかけてくださっているのです。
このクリスマスの時。私たちは神様が人間に何をしてくださったかに目を留める時でもあります。イザヤ43章4節
「わたしにとってあなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」のみことばを覚えます。
二葉亭四迷は、LOVEという言葉を訳そうと思った時に、聖書を調べ、こう訳しました。
「あなたのためなら、死んでもいい。」
神は愛なり、というみことばがあります。まさに、神様は私たち人間を愛するあまりに
ご自分のたった一人の御子イエス様を地上に送り、その命を十字架につけ、私たち人間の全ての罪をその肩に負わせなさいました。私たちは、神様の深いその愛に触れられて、その愛を持って「互いに愛し合いなさい。」というみ言葉に対峙するのです。
「愛」という言葉は私たちの心を温かくしてくれる言葉です。
その「愛」を語るだけでなく、実践する者とされたいなあと思わされたことでした。
②次に「神の愛に生きましょう」
私たち人間の愛には限界があります。これはこの世の愛の弱点です。この世の愛は
自分を愛してくれる人を愛し、相手の表情や行動に愛を感じて自分を嫌っていないことがわかれば自分も愛するという損得勘定が働きます。愛を示したら、その愛に相当するものが
返ってくるかを考え、親切にして見返りがあるなら、愛を尽くすと言った具合で、これには私たちの犠牲は全く伴いません。
キリストに贖われたキリスト者が生きる道、選ぶ道はこれとは違い、自分のことを苦手と思い遠ざける人を愛するというこの世の愛の限界を超えたものです。
自分に目線を合わそうともしない人、あるいは挨拶もしない人。キリストの愛のレベルに
引き上げていただくときに、損得勘定の入らない善行を成す力が与えられていくのです。
これは、本当に人には難関・ハイレベルな愛で、
34節には
「返してもらうつもりで貸してもあなた方にどんな恵みがあるでしょう」とあります。
つまり、味方を愛する愛では、神の恵みを受け取れない。神は喜ばれずあなたの態度に満足されないと言われているのです。力を与えていただきたいです。
③ 最後に父なる神に似るものとされましょう。
これらのこの世にあっての愛ではなくキリストの愛レベルに立ち、自分の敵を愛そうと
踏み出すなら、そこに神の恵みがあり、自己犠牲の愛をいただくことができることを覚えます。
敵を愛する理由として35節に3つ挙げられています。
1・天で報いを受けるから
2・私たちはいと高き方の子どもであるから
3・父が憐み深い方であるから
詩篇37篇3節には
「主に信頼し善を行え」というみことばがあります。
このような敵を愛する、自分の力では愛しえないと思う人を愛するという決断・行動はこの世においては無意味なことであり、馬鹿馬鹿しいことのように思えます。しかし、私たちの天の父はちゃんと見ていて下さる!報いてくださる方である!と主に信頼するなら、人が何と言おうと、あるいは自分の心の中で戦いがあろうとも、
一歩前に踏み出すことのできるキリスト者、弟子としての挑戦となります。
またこのようなみことばを聞いた時に、ペテロがイエス様に言われて、「ヨハネはどうですか?」と他の人を指したように、私たちは自分に向けられた言葉であることを忘れて他者を裁くことにまず心がいってしまう弱いものであることも語られました。
イエス様が、「あなたはどう応えるのか?」と聞かれた時に、あの人がどう?誰かがそうしているか?ではなく、私自身がするかしないか。そこが問われているということを改めて示されました。
平地の説教の学びを通して、示されることが多々あります。
なかなか自分の力ではできないことばかりです。しかし、神様の優しい、確かな愛に触れられて、憐れんでくださる主のお言葉、御手に力をいただいて、できる者へと、愛せる者へと主が変えて下さるように祈り、祈りです。
先日買い物をしようとお店に入りましたら・・・
クリスマス曲が流れておりまして、美しい讃美歌の中で心和みました。その中で
Bette Midler のFrom a distance のクリスマスバージョンが流れ、そっと耳を傾けていると
歌詞の中の「神は私たちを見てくださっている」と繰り返される言葉に改めて心がジーンと温かくなりました。
この全知全能の神様が私たち一人一人を、じっと見ていて下さる。確かにいつも見ていてくださっている。この愛のメッセージをお店で聞くなんて・・・。
クリスマスは全ての人に与えられているプレゼントであることをさらに思い、感謝でいっぱいになりました。
あちこちにキラキラのツリーが飾られています。主の熱く、確かな愛を見上げるときとして、このひとときが祝福で溢れますように・・・・願いつつ・・・。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして、滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節
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