
日曜日は雨が降ったり止んだりの1日でした。
礼拝は第一サムエル記7章より「心を主に向け仕えよ」と題してメッセージ。
❶神の時がくるまで待つ必要がある。
先週の箇所はベテ・シェメシュに「神の箱」が戻ってきてくださった。しかし彼らは、主を恐れず、そこに災いがもたらされた箇所でした。ベテ・シェメシュの人々の懇願により、キルヤテ・エアリムの人々は「神の箱」を運び上げ、そして丘の上にあるアビナダブという人のところに安置することにしました。(1節)
彼らが決して、神を恐れていなかったからではなく、神を恐れつつも、神の臨在を表すこの箱を、たとえ災いが起こったとしても、ペリシテ人の元に返すべきではない、手放すべきではない、とどめようと思ったからの行動だと理解することができます。
これまで、サムエル記を読み進めてきたときに、ハンナやエルカナ、そしてサムエル以外にイスラエルの人々に、信仰らしい信仰を見ることはできませんでした。4〜6章までにおいてそれがクローズアップされていますが、ここにきて、キリアテ・エアリムの人々の行動を見ると、また信仰の灯火がイスラエルに灯ったことを見ることができます。
この箱は2節において、アビナダブの家に20年間留まり、放置されていました。
その20年間は、サムエルにとってまだ若く修練の必要な期間であり神の預言者として成長させられていくに必要な年月であったことを覚えさせられます。
同時に、イスラエルにとって、相変わらずペリシテ人からの攻撃を受け続け、その苦しみの中で神様を本当の意味で求める期間となりました。
さらに、この20年間という年月は神様の忍耐を表しているとも言える、そのように語られました。
神様は忍耐深くあられる方であり、愚かな人間を深い愛と憐みをもって忍耐し、待っていてくださる。しかし、その忍耐を終わらせる時をも神が持っておられるということ。
使徒17章30節
「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、全ての人に悔い改めを命じておられます。」
❷真の悔い改めだけが神の祝福を受ける鍵である。
3節においてサムエルが登場し、このように言います。
「もし、あなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から、異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救ってくださいます。」

イスラエル人はそのようにし、ミツパに集まり、主に心からの悔い改めと祈りを捧げました。サムエルの語る神の言葉に対して、受け取った人々が「あなたの祝福を止めていたのは私たちです。お赦しください。」と真の悔い改めに導かれたのです。
信仰復興、まさにリバイバルです。
人が教会にたくさん集まれば「リバイバルが起こった!」と言いやすいけれども、そうではなく、「神のみことばが正しく語られ、それが聞く人に正しく理解され、悔い改めに導かれるとき」それをリバイバルと呼ぶのだということです。
そしてそのイスラエルの民の上に起こったことは・・・
なんと再びペリシテ人が攻めてきたのでした。
なぜ!?こんなことが!しかし、その後の展開を見ますと、神様はこの時イスラエルをテストされ、試されたように思えます。祈りに祈って、悔い改めた時にかえって悪いことが起こってしまった。
しかし、武器も兵もなかった当時のイスラエルの民はここで、勇ましく戦おう!と励ましあったのではなく、神により頼み、神に叫びました。
サムエルが生贄を主に捧げ、主に叫んだときに、主は天より大きな雷鳴を轟かせ、イスラエルはペリシテ人を打ち負かすことができました。
サムエルは戦いの後、一つの石を取って置き、それにエベン・エゼルという名をつけたとあります。
「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と。
4章から6章に至るまで、イスラエルは本当に厳しい状況の中にありました。しかし、その中で、自分の罪を知るように導かれ、同時に主の愛と憐みに立ち返る恵みに気付かされたのです。彼らの信仰はこの苦しい中で培われていった。
私たちも、この忍耐強い主にしっかりと守られ助けらていることを覚えつつ、悔い改めに導かれ、祝福の歩みを与えられたいと願います。
❸自分に与えられた使命と役割を果たしていきましょう。
イスラエルに与えられた3つの祝福について13〜14節に記されています。
①ペリシテ人がイスラエルの領内に入って来なくなった。
②ペリシテ人がイスラエルから奪った町々がイスラエルに戻った。
③イスラエルはペリシテ人のてから領土を解放したばかりでなく、アモリ神との間にも平和があった。
神様はイスラエルの人々の悔い改め・ミツパでのリバイバルをとても喜ばれて、この祝福を与えてくださいました。「平和」です。
箴言16章6〜7節
「恵みとまことによって、咎は赦され、主を恐れることによって、人は悪を離れる。主が人の行いを喜ぶとき、敵さえもその人と和らがせる。」
主なる神様との「平和」が与えられた時、人が悪を離れ、主がそれを喜ばれ、主の「平和」がもたらされる。
私たちも、目の前の問題が問題なのではない。「主との関係がどうなのか」それが問われているということを示されました。イスラエルが心から主への悔い改めをしたときに、祝福がもたらされたように、主の前にへりくだり、悔いあらため、主にのみ仕える。必ずそのような魂を主が祝福してくださることを覚えます。

CS、元気よく賛美したり、サムエルさんのお話を聞いたり、それから、折り紙で飛行機を作って思いっきり飛ばしてみました❣️広々と伸び伸び動いて楽しそう😁
午後は、教会の横駐車場にて第一回フードバンクが開催されました。

ご近所からもたくさんきていただき、コロナ前の小学生のクリスマス会やクワカブ大会に来てくれていたお友達もきてくれたりと、懐かしい顔ぶれの成長に驚き、和やかな雰囲気でスタートしました。これからも定期的に第一・第三日曜日に開催されます。次回は6月6日!
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことが共に働いて益となることを、私たちは知っています。ローマ8章28節 」聖書
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