
秋桜が綺麗です!秋桜に似た小さなお花はオキザリスというお花です。
さて、今日の礼拝は「恵みの選びによって残された者」と題してローマ書よりメッセージ。
❶神のご計画のうちに残された者がいる。
パウロがこの11章の初めで、神を信じないユダヤ人に対しても主は待っておられ、
決してお捨てにはならないことを記しています。預言者エリヤのことを例に挙げています。
エリヤは 1対450人でバアルの信者との戦いで勝利したにもかかわらず、アハブ王の妻イゼベルにより追い詰められ、「明日の今ごろエリヤを生かしておいたら神々が私を罰せられるように」と誓った言葉を聞くと恐れ慄き、山へ逃げ、神様に「もう私の命をとってください」と訴えました。
「私だけが一人残りました。」というエリヤに神様は、こう答えられました。
「わたしは、わたし自身のために男子7000人を残している。バアルに膝をかがめなかった者たちである。」と。
ここに神様からの大きな励ましがあると語られました。
たった一人、自分だけがと思っていた。しかしそんなに大勢、残されたものがいたのか!
この日本には現在0.2%のクリスチャンがいると言われています。
人数を見れば僅かです。しかし、そんな中で、神様が私を選んでくださったように
まだ、主が選んでおられる人々がおり、そこに届くために私たちを用いてくださろうとしている。
この終末の時代、残りの民として主に熱心に従うなら、イエス様の言葉をしっかり守り、最後まで教えを捨てることなく神の言葉を握り続けるなら、神はその人を通して御業を
行ってくださり、一人、また一人と選びのうちにある人々を近づけ、神に栄光を
表すものへと導いてくださるのです。
❷頑なになってはならない
パウロは続いて、神の恵みを受けることのできなかった人がいることを述べています。
なぜ、彼らは神の恵みを受けることができなかったのか。
それは、彼らの心が頑なであったからだと語るのです。(7〜10節)
頑なにされたという「頑な」という言葉はギリシャ語「ホロオー」(固まる)という言葉であり、心がこり固まってしまうという意味です。
どんなに賛美しても、どんなにみことばを聞いても、悟ることができない。
それは、鈍い心と、見ない目と、聞かない耳を与えられたからと語られています。(8節)
神の言葉について悟ろうとしないから、聞いても悟ることができない。神様は私たちが聞いた言葉をよく熟慮して悟ることを求めておられ、私たちには聞いたものを悟る責任があるということ。
イエス様は福音書で、種まきの話をされました。しかし、その時に群衆のことを良く言われなかった。それは群衆が聞いたまま帰っていってしまったからです。
「あの意味は何ですか?」と問うてきた弟子たちを喜ばれ、聞いて悟ろうとしたその態度を良しとされたのです。
「私たちの人生で最も恐ろしいことは何か」
それは受験に失敗するとか、就職がうまくいかないとか、仕事や家庭に問題があるということではなく、「聞いた御言葉を悟ることができないこと」なのだと語られました。
この世のものの虚しいものを追い求めるのみで、本当の祝福に目を留めることができないこと。マタイには、

創世記にノアの時代のことが書かれています。
これは↑イエス様のお言葉です。ノアの洪水が起こるまで、人々は、食べたり飲んだり、めとったり、嫁いだり、と生活を享受していました。ノアが100年近くも来る日も来る日も大きな箱舟を造っている姿を人々は見て嘲り、笑い、ノアの言葉には耳を貸そうともしませんでした。
人々の心は全く閉ざしており、ノアのいうことなど戯言のように思われたのです。
しかし、洪水が起こってから彼らは悟ったのです。もう遅いという時にです。
この世の生活だけを楽しみ、働き、過ごしている人々に向かってイエス様は言われました。
「人はパンだけで生きるのでなく、神のみことばによって生きるのだ」と。
だから、私たちは常に、悔い改め、柔和な心を持っているべきこと。
聞く耳を持ちなさいと言われたイエス様のお言葉を聞きそれを悟る人を神は喜び、「残された民」といってくださる。
これは決してみことばを信じない人々に語られていることでなく、
みことばを受け入れたキリスト者に対して、
常に「道端の心」なのか、「岩地の心」なのか、或いは「いばらによって邪魔されてしまった心であるのか」私たちの心の状態が問われているということを覚えたいです。
今週も心を柔らかくして、神様のみことばが生きる日一日でありますように。

今日も楽しいCSでした。寒い日も続きますが、体調が引き続き守られますように!
わたしに向かって「主よ、主よ。」という者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。マタイ7章21節 聖書
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