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「イエスさまを想う」*ルカ9章43節〜45節

更新日:2023年3月6日


河津桜のピンクが華やかです♡

みことばは、「人々の手に渡される」と題してルカ書より


イエスさまは十字架にかかられる前に予告を3回されました。

1回目は、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに渡されるということ(ルカ9;22)

2回目が今日のみことばで、イエスさまは「人々」の手に渡される、と言われたのです。


❶イエスさまが人々の手に渡されると言われた言葉の意味とは。

イエスさまが人々の手に渡されるということは、例えばイスカリオテ・ユダ(左の絵)やポンテオピラト(右)が裁判後に人々にイエスさまを渡してしまった場面を想像します。


このことはイエスさまがご自分の「意志」によってではなく、起こってくるその流れにご自身を任されたのだと語られました。

ローマ書8章32節が開かれました。

「私たちすべてのためにご自身の御子さえも惜しむことなく死に渡された神がどうして、御子とともに、すべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

ここで、誰がイエスさまを私たちのために死に渡されたと書かれているかというとー実に神様が、神ご自身がそれを成されたと書かれているのです。


神様が様々な人々とその動機を用いて、イエスさまを「人々」の手に渡されて行った、この「人々」とは一体どんな人々なのでしょうか。それはイエスさまに敵対する人々であり、知ることも悟ることもしようとしなかった人々でした。

イエスさまは、実に神様の導きにより起こってくることに少しも抗うことなく、神様にその身を委ねられて行ったのでした。

ここで、さて「神に委ねる」とはどんな状態をいうのだろうか・・・と問われました。

こんな感じではないでしょうか?と。↑この絵です。


もし「神様の御心は何でしょうか?従わせてください」といいながら、「自分の思うように、決めたようにことが運ぶなら従います。自分ができることなら、したいと思うことなら従います」と条件を付けて行くなら、それは神の御心に従っているのではなく、自分の思い通りに生きているに過ぎません。委ねて従う姿ではないのです。


私たちは考えます。イエスさまは神様だから従うことができたのだろう、と。

しかし、イエスさまは完全に100%神様であり、完全に100%人間となってくださった方。

イエスさまは人としての感情もお持ちになられていたということを思うのです。

ゲッセマネの園でイエスさまが苦しみもだえて祈られたことを思います。

「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とルカ書22章44節にあります。

人としての困難・試練・苦しみを通って下さったのでした。


私たちは、自分が良いと思えることには、「神さまの御心だ」と従い、自分がそう思えないことには「従いたくない」と思う。

ヨナの話が語られました。預言者ヨナは「ニネベに行け」と神様から言われた時に「あんな罪人の町になど行きたくない」と神様の言葉に従わずに、主の御顔を避けて自分勝手な道へと行きました。

主に矯正され、ニネベに行くことになった後も、自分の思いと神様の御心が違うということが面白くなかった。そんなヨナに神様が問いかけをする形でヨナ書は閉じられているのです。

神の御心があるのに、No!という私たちの姿。そこに御心が成されるかというと、私たち自身の矯正と悔い改めがまず必要とされているということに気づかされます。

イエスさまのお姿から私たちが教えられるのはー徹底して委ねる姿です。この子どもがお父さんの手にその身を迷わず飛び込み、委ねるように。。


イエスさまはヨハネの福音書の中で、神様とご自身の関係を語っておられます。

「わたしを見た者は、父を見たのです。」

「わたしと父とは一つです。」

この言葉からイエスさまと父なる神との一体性を教えられます。そしてその一体性はイエスさまが神様の御心に完全に従われるという中に見出すことができるのです。イエス様がいつも神様の御心を求めて従われたように、神さまのお考えは私たちよりも遥かに高いことを信じつつ父なる神様に委ね従う者とされたいです。


また、イエスさまがゲッセマネの祈りの中でも本当に苦しまれた。御使いが天から現れてそのイエスさまを励まされた(ルカ22;43)とありますが、この苦しみの一方で、それを上回る喜びをイエスさまはもっておられたということも知るのです。それは、イエスさまがいつも神様の御心に生きておられるご自身であったからであること。。。

神の御心に生きる平安。与え続けられたいです。


❷弟子たちにはイエスの言葉の意味が分からなかった。


45節にはこう記されています。

「弟子たちにはこのことばが理解できなかった。彼らにはわからないように、彼らから隠されていたのであった。彼らはこのことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。」

十字架の真意が彼らに隠されていたということ、彼らの心が曇っている状態であったこと。

ルカはこの言葉を記しながら、24章においてエマオの途上でイエスさまに出会った2人の弟子たちが、イエスさまが預言を通してご自身について語る中で、心が開かれて、隠されていたものが開かれ、彼らが聖書の真理を悟るようになったと記してゆきます。


神様が私たちの心を開いてくださるのでなければ、神様の御許しがなければ、私たちにはみことばの本当の意味・真理を悟ることはできないのです。

エマオの途上で、2人の弟子たちにお話しされた時にイエスさまが言われました。

「ああ。愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」と。心が鈍くて、預言を聞いても全てを受け取らないで、自分に都合のいいところだけを選り好みして聞いている人たち、と。そのような態度が理解を阻んでいるのだと。


そしてお弟子たちが3回も十字架の予告を聞いても理解できなかったのは、彼らがイエスさまに真意を「尋ねなかったから」なのだと語られました。

彼らは、怖かった。イエスさまが捕らえられて殺されてしまうと聞いてひどく悲しみました。しかし、それ以上聞いても、自分達には何もできない、いやそんなことなど考えたくもないと、一歩引いてしまう姿がそこにあったのです。


弟子たちは、ゲッセマネの園で、イエスさまが捕らえられたとき蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったけれども、実はもうこの時からすでにイエスさまのことを見限って、その心が離れていっていたのだと語られました。

そして、イエスさまはそういう「人々」の手によって、敵対する「人々」の手に渡されて行ったのだ、と。


それもこれも全部わかっておられてイエスさまは十字架に向かってくださったのでした。

神様が与えられた「贖いの代価としての使命を全うするため」の孤独な戦いを通ってくださったのでした。


誰しも十字架など負いたくないと思います。イエスさまを裏切ったペテロもそうでした。

「十字架を負うという信仰」に近づくためには、「私のために成された十字架の意味を理解しようとする心」が必要なのだと語られました。

私のような不信仰者のために、イエスさまは十字架にかかって下さった。

今週も、完全な人としての感情をお持ちになりながら、この苦しみの道を私のために歩かれた主に目を向け、その主はいつも神様に委ねて平安と喜びのうちに従われて行ったということを思い出しながら、歩みを導かれたいと思います。


「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためにきたのです。マルコ10章45節  聖書」

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