そして吾妻山からも美しい景色を・・・。
礼拝はルカ7章より「おいでになるはずの方」と題してメッセージ。
❶つまづきの原因
バプテスマのヨハネについて学びました。
ヨハネが18〜19節で弟子を呼び、言付けて主の元に送ったことが書かれています。イエス様はこの弟子たちに、23節で「誰でもわたしにつまづかないものは幸いです。」と言われました。ここで、二つの見解があることが語られました。
一つはヨハネ自身が主につまづいたという見解。
もう一つは、ヨハネの弟子がつまづいたのではないかという意見。
19節の「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、他の方を待つべきでしょうか」という言葉は、疑問形ですが、元々の言葉では「あなたではありませんか。」と訳せる言葉です。つまりその後に「その通りですよね。」とも訳すことができるのです。
ヨハネのことを振り返ると、ヨハネはイエス様の母マリヤの従姉妹であるエリサベツの子として生まれました。誕生する前に、母二人が会ったときに胎内でヨハネは喜んで踊ったと書かれています。(ルカ1章44節)
イナゴと蜜を食べ、ラクダの毛の衣を着て(マルコ1章1節〜)荒野に現れたヨハネ。
救い主が通られるための道を備える使命の元に生まれてきました。その誕生も主の選びによって誠実な年老いた祭祀を親とし、イザヤ書の預言の成就が成されました。
イエス様がナザレからヨルダン川に来られたときも、ヨハネはイエス様を見て、
「見よ。世の罪を取り除く子羊」と告白し、イエス様の望まれるようにバプテスマを授けました。ヨハネは言います。「『私の後に一人の人が来られます。その方は、私にまさる方です。私より先におられたからです。』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来てバプテスマを授けているのは、この方が、イスラエルに明らかにされるためです。」と。
このヨハネがイエス様につまづくということは、考えにくく、ヨハネの弟子が疑問を師匠ヨハネに投げかけそしてヨハネが弟子たちを主の元に遣わした、と考えることもできます。
ヨハネは人に媚びるということをせず、権力者にも平民にも、真っ直ぐに罪を指摘し、悔い改めを説きました。ヘロデ王が兄弟の妻ヘロデヤを妻としたことを指摘したことで、ヨハネは捕らわれ投獄されます。
牢の中にいる間、死を目前にして、ヨハネがイエス様に投げかけた問いか。あるいは弟子たちが師匠を思いイエス様が救い主であるのか。何をしてくださるのですか、、師を助けてくださるのでしょうかと、イエス様の元に問うためにきたのか。
ここで、イエス様が言われた「つまづく」ということについて考えました。
人は大きな石にはつまづきません。大きければよけます。つまづくのは大抵小さな石です。
教会にも大変崇高なイメージを持って来られる方がおられますが、ルターは「教会とは赦された罪人の集まりである」と言いました。
罪ゆえに出てくる問題、それはほとんどが人との関係においてであり、そこにつまづいて、離れる人が少なくないのです。
しかし、この小さな石につまづかないで、歩む秘訣が一つあります。
それは、「神しか見ない」ことです。
今日もヘブル書12章2節が引用されました。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と。
私たちは、生きて力強く働かれ、いつもともにいてくださるキリストの元に、遠慮なく行くことができるのです。
ヨハネが弟子たちに指導したのはこういうことかもしれません。イエス様の元に行きなさい。そこで解答を得よ、と。
❷福音は貧しいもののために
イエス様は、ヨハネの弟子たちに言いました。
「目の見えないものたちが見」
「足の不自由な者たちが、歩き」
「ツァラアトに冒されたものたちがきよめられ」
「耳の聞こえないものたちが聞き」
「死人たちが生き返り」
「貧しい者たちに福音が伝えられている」
このことをヨハネに伝えなさい、と。
イエス様が、公生涯を始められるにあたって初めて会堂で立たれた時に、巻物イザヤ書61章1〜2節が渡されそれを朗読されてから「今日この聖書のことばが実現しました」と言われました。(ルカ4章21節)
この6つのうちの5つまでは、福音書の至る所に記述されていますが、
6つ目の貧しい者たちに福音が伝えられているということは、実話としてはっきりと書かれていません。しかし、主が来られたのはこのみことばの成就であり、ここに主が御心を留められておられたことを改めて思いました。イザヤ書61章1節の
「貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒すため」
この言葉とともに、イザヤ書66章の2節
「わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ」とあります。
どんな人が神の恵みをいただくことができるか、それは何も、貧しくあらねばならないということではなく、財や人、自分にしがみつく者でなく、神ご自身にしがみつく者、
自分の与えられている中で、精一杯主に誠実に、神を喜ばせるために、献げる人、心の砕かれた人であるということです。
今週も、自分でなく、人でなく、何よりも「神様に喜ばれる」そのことに心砕かれた歩みをすることができますように。そして、主から目を離さないで歩むことができますように。
今日のCSの暗唱聖句も先週と同じヘブル12章2節でした❤️
みんなよく覚えてきたので
先生がこんなふうに・・・。
「あ!黒いぶただ!」
「あれれ。大きいぶたさんだ!」と
言ってるうちに完璧に覚えてしまいましたね!☺️
礼拝でも何回もでてきたみことばですね。
元気いっぱいで、楽しく工作・ゲーム・お話・賛美。
みんなさらに賢く成長していて、主の守りに感謝です・・・。
「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」第一テサロニケ4章1節 聖書
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