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マラとエリム*出エジプト記15章22〜27節

更新日:2022年2月15日

今日は「マラとエリム」と題して出エジプト記15章22節から27節までのメッセージでした。


「水戸黄門」のテーマソング。「人生、楽ありゃ苦もあるさ」

人生みな、楽しいことばかりならいいなと思う、しかし現実はそうもいきません。

楽しみや幸せを、お金や異性、家庭に求めるようになったり

あるいは教会にくれば幸せになるか。

聖書には「キリストイエスによって、敬虔に生きようと思えば・・・

迫害に遭います。」ともあります。

わたしたちの人生に起こることについてどのように捉えるか。神様はどのように関わってくださっているか。

1・神様は荒野を用いて人の信仰を訓練されるかた。

200万人はいたであろうイスラエルの民。エジプトを出てから紅海を渡り、神様の

なさった御業を心から賛美した矢先、飲み水がないということに直面し荒野で、叫びます。私たちは窮地に置かれたとき、本当に神様を求めるようになる。不平不満をいってしまう弱さとともに、困窮した時にこそ、真剣に主を求める。主はその祈りに応えてくださるお方。


2・一本の木を投げることの意味。

モーセが神様から言われたことを、意味が分からずとも従ったことに大きな意味がある。

ナアマンもそう。またカナの婚礼の時の水を汲んだ者たちもそう。

なぜか分からなくとも主に言われたら従う。

またこの「一本の木」は、原語では「トーラー」その意味は、律法すなわち「聖書」を表す言葉である。

「主の言葉」を喜びとし、・・・(詩篇1篇より)神の言葉に聞き従うものは幸いである。


3・神はエリムを用意されている。

民はマラの泉のあと、エリムの泉に導かれる。そこはマラとは違い、十分な良い水があり200万近くの民が宿営できるほどのところであった。はじめから、「今はこんな泉だけれど、あとで、すばらしいエリムという泉があるよ」とは神様は教えられなかった。

たとえば、アブラハムもまた然り。イサクを捧げよといわれたときに、アブラハムはそばに牡羊がひっかかっていたなどとは気づかなかった。ただ、神さまの言われることに集中してお従いしたときに、神様はアブラハムをとめてそこに牡羊をもちゃんと用意しておられたことに気づかせてくださったのである。

神様は、訓練の時を無駄にされず、さらに、ちゃんと用意してくださっている方❣️


まことにその人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。

その人は水路のそばに植った木のようだ。時が来ると実がなりその葉は枯れない。

その人は何をしても栄える。詩篇1篇3節   聖書

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