• 二宮山西キリスト教会

私を取り囲むキリストの愛

最終更新: 11月11日

暑い日々が続きます。今週のzoom de CS では


こんな工作を作りました。


ゲームタイムは、それぞれの画面の前で大忙しの2分間!大笑いのワクワクゲーム!

ストーリータイムはモーセさんのお話でした❣️


礼拝のみことばは


ローマ書6章15節から23節より、「義の奴隷」と題してメッセージ。

今週限定でHP YouTubeよりご覧になれます。


からし種(牧師のコラム)より

 大きな船底に鎖で繋がれ、休むことなく、櫂で漕ぎつづける奴隷の姿を描いた映画をみたことがありますか。そのような映像を見ると、私たちの心には自然と奴隷というものに対する嫌悪感が生まれてくるのではないでしょうか。

 しかし、今朝の箇所を見ると、パウロはその「奴隷」という言葉を、救われた私たちに向かって使っています。ただ、パウロがこの言葉を使っているのは、奴隷制度を身近で経験している人たちが、聖書の真理をより、具体的に理解するためでした。その証拠に、パウロは奴隷という言葉の前に、「義の」とか「神の」という言葉をつけています。

 奴隷というのは、自分を買い取った主人に100%仕える事が求められ、反抗すれば

鞭打たれ、ひどい場合は殺されてしまいました。従順であったとしても、弱り果てて主人の要求に応えられなくなってしまえば、捨てられてしまう、家畜と同じような存在とみなされていたのです。

 しかし、神の奴隷というのは、神に鞭打たれ、使い物にならなくなったら、すてられてしまう、そのような存在ではありません。むしろ、自らの意志で、神様に仕え、失敗することはあっても、許され、永遠に神様のみもとに置かれるのです。

 普通は奴隷になりたいなどとは思いません。しかし神の奴隷は、自らの意志でそれを選ぶのです。それはその立場に自分を置くことがどんなに幸いであるかを理解するからです。

 あなたは、神の奴隷になったことを喜んで受け入れ歩んでおられるでしょうか。


「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。1人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」

第二コリント5章14、15節  聖書

主の平安がありますように!


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