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心を注ぎ出す祈り「ハンナ」*第一サムエル記1章1節〜19節

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更新日:2022年6月29日



昨日とは打って変わって今日は寒かったですね。凛と咲く美しい花々や鳥に和まされると同時に心ピンとさせられるそんな一日です。


さて礼拝は、第一サムエル記1章1〜19節より、「心を注ぎ出す祈り」と題してメッセージ。


士師記・サムエル記前半を読むと、この時代がどんな時代であったかを知ることができますが、士師記17章6節と21章25節には、「その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」そのように書かれています。


霊的指導者がおらず皆が霊的に迷走していた「霊的暗黒時代」。その暗闇の中を歩く人々を神様は放って置くことをなさらずに、自分の心にかなう人々を遣わし彼らを通してみことばを通して修正しようとされた。そんな中での今日の箇所です。


❶ハンナの苦しみ

 1〜8節の中で、私たちはハンナの悶々とした苦しみを見ます。夫エルカナの愛を得つつも子どもが与えられないという厳しい現実が続く中、当時の人々の「子が与えられないのは神の前に問題があるのでは?」「何か神の前に取り扱われなければならないことがあるのでは?」という冷たい目があり、またそのことによって迎えられた第二夫人で子沢山のペニンナによる執拗な嫌がらせや確執は、ハンナの心を引き裂き、ひどく苦しめました。


6節で「彼女に敵対するペニンナはハンナをひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた」とありますが、その苛立ちは、ハンナを祈り場へと向かわせました。


5節に主がハンナの胎を閉じておられたとあります。神の御心ではなかった、神の時ではなかった、それゆえにハンナは苦しみの時を通らされたのです。今聖書を読む私たちは、ハンナに「それはご計画の内のことだったのだよ」ということができます。しかし当のハンナは、全く先が見えず、どんなに苦しかったことでしょうか。


私たちにも神のご計画があります。憂いや苛立ち、先が見えない故にどうなってしまうのかと悩みが与えられるときがあります。しかし、その苦しみのど真ん中で、「ここにも神のご計画がある」と神を信頼すること、「必ずそのご計画は成り、そして私の憂いもちゃんと神がご存知である」「この先に必ず解決が与えられる」と信じることは、とても大切なことです。


「どこに私たちの逃れ場を見つけ出すのか。」


ハンナの夫エルカナは、彼女の苦しみを知っていましたが、慰めることができませんでした。神のご計画の中で起こってくる悲しみは神様のところに帰らない限り、何からも解決を得ることはできないのです。ハンナは夫エルカナより慰めも受けず、一人神殿へと出かけ祈るのです。


「神様のところに逃げる。」


御心により起こる苦しみは、その御心の実現まで消されることはなく、簡単な慰めーそれはお酒であったり、他の娯楽や人であるかもしれませんがーそのようなものは一時的に忘れさせてくれたとしても本当の意味で痛みから私たちを解放することもないのです。


本当の解決は、これが神の時の中で、神のご計画によって起こっていると知り、納得する所まで行き「神がそうされたのだ」というところに平安を得て神の前に落ち着く。そんな過程の中で与えられてゆくのです。


❷ハンナは心を注ぎ出して祈った。

12節で「ハンナが主の前で長く祈って・・・」とあります。

「1時間でも祈れないのですか」という本を書かれた先生がいます。その先生は1日の十分の一の時を祈りのために聖別されているそうです。


私たちは、全てがうまく行き、守られていると感じているときに、なかなか主の前に時間を大きくとって祈りを捧げるということのない者です。しかし、窮地に追いこまれ本当に苦しい中を通らされると、常に祈りの言葉が頭の中に響くほど主の前に祈り叫ぶようになります。


ハンナは酔っているのでは?と祭司エリに誤解されるほど、主の前に心を注ぎ出し、ありのままの自分をさらけ出し、祈っていたのでした。


これは人を気にし、人の評価を気にするような大人しい、理性的な綺麗な祈りではありません。神様、あなたは本当にここにいて、私の祈りに耳を傾けてくださっている、その信仰のうちに、神様が人格を持って聞いておられる方であることを認め、その神様に祈る。


ダビデ王は詩篇の中で様々な詩を記していますが、詩篇23篇などはとても有名でこの箇所を口ずさむだけでも牧歌的な美しい風景が思い浮かびます。しかしながら、ダビデがこの詩篇を書いたのは、彼の人生が暗闇で暗黒・死の恐怖が迫っている中であり、嘆きを注ぎ出し八方塞がりの中で神に助けを求める彼の切実な叫びが多く記されているのです。


11節でハンナは「万軍の主よ」と神様を呼んでいます。たとえどんなに敵が多くとも、またその敵が大きな富や力を持っていたとしても、神様、あなたはそれにまさるものを持っておられる方、私たちの課題のために、万能の力を持って戦ってくださるお方。解決してくださるお方。そして、この万軍の主が全部を知っていてくださるということ。


今年の二宮山西キリスト教会の年間聖句が挙げられました。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、全ての理解を超えた神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6〜7節


私たちの神様は、私たちが祈る前から苦しみ・痛み・悲しみを知っていてくださる。

この神様に感情を押し殺すことなく、駄々を捏ね、嘆き事を言っても、神様はちゃんと受け止めて聞いてくださる。この時に、私たちは真の平安を得て、自由にされる。

本当の意味で平安を得るときに、私たちは、人に不満を持つことから、陰口をいうことから解放されるのです。


心が平安で満たされる時、心配が止みます。そして一時的に痛みはするけれど、苦しみもあるけれど、しかし、それすらも全て神様にお返しする。

ハンナもここまで導かれたのでしょう・・・


❸祭司エリを通して

17節で、ハンナから事情を聞いたエリはこう声をかけます。

「安心していきなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」と。

これが祈りの言葉なのか。はたまた預言か、挨拶か。わかりません。

しかし、この言葉を聞いたハンナは、今までずっと祈ってきた神様の前に、

この言葉を自分の祈りへの応答として受け止め、信仰を持って、信仰ゆえにこの言葉を握って帰っていったのです。図らずも先週のみことばのメッセージで「罪深い女」と言われた女に対してイエス様が言われた言葉が

この「安心していきなさい。」でした。


家に帰ったハンナに対して相変わらずペニンナの意地悪は続いたかもしれません。

しかし、このみことばを信仰によって握ったハンナは確信・勝利を信じて一歩踏み出したのです。信仰の勝利です。食事もし、会話もし、「ハンナの顔はもはや以前のようではなかった」と18節に記されています。


以前に、このような言葉を見つけ、壁に貼っています。

「聖書を静かに読んでゆく時、その言葉が自分への語りかけと受け止められたら、

それを確信して命をかけてゆくことである。」


本当に主の前に心を注ぎ出す祈り。主はその祈りを退けず、必ずみことばを助けを与え、道を開いてくださるということ。わたしの人生のプランニングをしてくださる方の御手の中にある幸い。どんな時も私と向き合ってくださるお方を知っているということはなんて幸いなことでしょうか。


ハンナがこのエリを通して主が語られた言葉にどんなに励まされたか。そしてまだ何もないその時にすでに助けと祝福を確信・勝利することができた。このハンナとこの神様との関係。

彼女の信仰を練り、この母を通して、やがて偉大な祭司サムエルをイスラエルに送ろうとされた主のご計画・ご準備を思うときに、神様の入念な深い配慮とその働きに大きな感動を覚えます。

今週もこの神様がご一緒くださる。感謝します。



「主よ。耳を傾けて 私に答えてください。

私は苦しみ 貧しいのです。

私のたましいをお守りください。

私は神を恐れる者です。

あなたのしもべをお救いください。あなたは私の神。私はあなたに信頼しています。

主よ。私を憐んでください。絶えず私はあなたを呼んでいます。

このしもべのたましいを喜ばせてください。

主よ。私のたましいはあなたを仰ぎ求めています。

主よ。まことにあなたは慈しみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求める者全てに

恵み豊かであられます。

主よ 私の祈りに耳を傾け 私の願いの声を心に留めてください。

苦難の日に私はあなたを呼び求めます。

あなたが私に答えてくださるからです。」詩篇86篇1〜7節  聖書

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