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「自由になりたい」*使徒3章(祈祷会)
更新日:2022年6月29日

気持ちの良いお天気です。今朝の祈祷会の聖書箇所は使徒3章より
🟠前半(1〜10節)
ペテロとヨハネを通して生まれつき足の不自由な男性が立ち上がるという奇跡が行われたことが語られています。3つのことに目を留めました。
❶使徒たちが毎日宮に上ったこと。
弟子たちは、主が天に昇られてから毎日宮に上るようになったのではありませんでした。
人々を恐れていたからです。しかしペンテコステの後、聖霊が下り他国の言葉でみことばを語るようになってから、彼らは変わりました。この後もローマを中心に迫害が大々的に行われ、捕えられる心配・危険が常にあるという状況は変わりませんでした。しかし、その中でも、彼らは御霊に満ち溢れ、大胆に恐れることなく、エルサレムの神殿へと上っていったのです。
❷彼らは主の御名を用いて癒しを行なっていきました。
彼ら自身に不思議な力が与えられたわけではなく、「イエス様の名」を用いて、それを行なっていたということを覚えます。
今まで、イエス様と一緒に生活していたときにも、イエス様、そしてイエス様の御名が素晴らしいということに弟子たちは気付いていました。しかし、その信仰が成熟していたかというと、福音書を見る限りにおいてはそうではありませんでした。
ところが、ペンテコステの後です。彼らは、このイエスの御名によって祈り、そこに癒しや奇跡が行われていったのです。
つまり、彼ら自身ではなく、イエス様に力がある。このイエス様の名によって祈るなら、それが御心にかなう祈りであるならかなえられ、神様に栄光を帰すことになるのです。
❸男性は律法の下で神殿の外に置かれていたが、癒されると宮の中に入ることができた。
当時、女・子どもは祈りの場所においても律法によって、入れない場所があり、さらには病人も神に呪いを受けたという理解がされ、聖い礼拝場へ入ることは許されませんでした。
ですから、この男性もいつも門の外に運ばれてきてそこで物乞いをしてなんとか生活を送っていたと想像することができます。
律法は罪の意識で私たちをがんじがらめにします。この男性も肉体の弱さの上にさらに、あれもこれも出来ないという不自由な中で生きてきました。
これに反してイエス様の福音は何をもたらしたか。
この癒された男性は、回復が与えられ、このような律法の掟から解放され、内庭にまで入っていくことができるようになりました。
私たちに福音がもたらすものは、自由です。まさにこの男性のように、罪の縄目から解き放たれ、罪ゆえに束縛・拘束され生きづらい世の中にあって歩んでいた私たちも、「真理はあなたがたを自由にします。」という御言葉の通り、自由にされるのです。福音に感謝の思いが溢れます。
🟠後半(11〜26節)
ペテロの説教からも3つ挙げられました。
❶イスラエル人が十字架にかけて殺したイエス様が、この男性を完全な体にしたのだという宣言
イエス様の御名には力があり、御心にかなう祈り・命令であるならばそれはその通りになるということをペテロは大胆に語りさらに、「それなのに、その力を持った主イエスさまをあなたがたは十字架につけて殺したのだ!」と宣べるのです。
そもそも、イエス様が十字架にかけられた裁判には、これらの人々はいなかった可能性も高く、ピラトの官邸にはパリサイ人に扇動され仕組まれた人々が送られていたはずです。
しかし、ペテロは「あなた方がいのちの君を殺したのです。」(15節)とはっきりいうのです。つまり、沈黙とともに何もしなかったあなた方はそれを認めてしまったことになると、イスラエル人皆で、イエス様を殺したのだと、あなたがたは同罪であると言ったのです。
私たちもまた、同じで、罪とはしてしまったものだけではない、イエス様に対して向き合おうとせず、否定し、無視し、拒否してきたかもしれない。そのことをもう一度深く受け止め、主の前に悔い改めることを示されました。
❷イエス様を殺したことを、そこにいた人々に悔い改め立ち返ることの勧告をペテロは続けて語ります。
❸よみがえり、天に昇られたイエス様は再び地上に来られるということを、ペテロが雄弁に語っていきます。
ガリラヤ湖で漁師をしていたペテロがなぜこのような壮大な神のご計画について大胆に語ることができたのか。
「多分イエス様は来られるかもしれません。。。」などと弱々しく小さな声で自信なげにぽつぽつと語ったのではないのです。「必ず!イエス様は再び来られます!」と力強く大胆に語った。
これはまさに彼らに働く聖霊の力でした。
人が神のみわざのために働こうとするときに、御心を行うために一生懸命祈り求めるときに、御霊も共に働いて、事を行わせてくださる。
「奉仕の依頼」があるときに、「これはできない」「それもできない」と、能力を考えて、「ここまでならします。」と私たちは応答してしまいがちです。
しかし、そのような思いを変えて、主のために、主の栄光が表されて行くために才能・能力・成し遂げるための忍耐を超えて、「主がご入用なのです。」と子ロバのように呼ばれたら、主に心配も不安も委ねて、御前に出て「用いてください。」と信頼して仕えてゆく。そのときに主がそれを豊かに祝福して用いてくださることを覚えます。
「権勢によらず、能力によらず、主の霊による」とのみことばが語られました。
教会もそれに連なる兄弟姉妹も、誰かの権威や誰かの能力でなく、「主の霊」によって立つときに、主がそれを喜ばれ、そこに祝福を置いてくださるということをもう一度思い起こさせられました。
地上において、私たちの上にはいつもチャレンジがあります。
「私の状況」「私の能力」「私の限界」はここまで!だから、これしかできません。という姿勢で進んだとしても、その中で成し遂げたことに関しては、できることをやったに過ぎないということです。
私たちは、どこに信仰を働かせるのか。目に見える範囲で、私が可能と思える範囲で
捧げ、仕え、動くということでなく、もっと主に期待し、信仰をもって、私たちを差し出してゆく、そのときに主が私たちが想像さえできなかったほどの祝福をもって臨んでくださるということを覚えたいです。
「いと高き方の霊が望むとき、私たちは力を受けます。」
主の名には力がある。そして、御心にかなうものは主の名によって求めるときに与えられる。私たちがこの信仰にまっすぐに立つことができますように。
どうか私たちを御霊で満たし、御用のためにお用いください。
みことばに感謝しつつ・・・。
「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。エペソ1章23節」 聖書