
今朝はローマ書10章より「みことばによる救い」と題してメッセージ。
❶人の義か神の義か
使徒パウロは、人は自分の義(行い)によって、神の義を満たすことはできない。神の義とは、全ての人のためのキリストの十字架であること、と語りました。
そして、モーセの二つの言葉を引用して、救いについて「人の義か神の義か」説明しています。
1つ目は、レビ記18章5節で主から語られたみことば「あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である。」
神のみことばに従って生きるならば祝福に預かり、従わなければのろいを受けること。もしも不従順であり続けるならば約束の地から追放されて、捕囚の民として生きるようになる。
2つ目は、申命記30章において、もし捕囚の民として連れて行かれたとしても、悔い改めて、主なる神に立ち返るならば、神様は民をご自分のものとして回復してくださる、という約束。
掟を守ることも、神様に立ち返ることも、神が語られた言葉であり、滅ぼされても当然の私たちを憐れみ、愛して下さり、永遠のさばきにあわないように救いの道を用意してくださったこと。神さまが私たちに求めておられることは、その愛に信頼して神を深く愛すること。
「私もあなたを愛します!」と応答することです。
申命記の30章14節には
「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」と書かれています。
神様はいつも私たちの近くにいてくださる方。この神様の前にひざまずいて、憐みを請い続ける生き方。クリスチャンとして年数を積むということは、ひたすらに神の御翼の陰に隠されつつ、「あなたの御前にできることは、僅かです。しかしそれを心を込めて精一杯させて頂きます。」という謙虚な姿勢であることをもう一度教えられたことでした。
❷主を呼び求める者はみな救われる。
パウロは、9節と10節で、みことばであるイエス様を受け入れることを勧め、私たちが天国に行くためには、イエス様に常に焦点を合わせ、イエス様の救いの福音を心で信じ、それを口で告白することだと述べています。
心で信じるとは、神様が用意してくださったイエス様を通しての救いを自分の心に受け入れること。
口で告白するとは、それを包み隠すことなく、自分が信じていることを表明することです。
ある55歳の婦人の話が出てきました。
この方は胃がんの宣告を受け、余命半年と言われたことを牧師に淡々と話されました。
そしてこう言われたそうです。「先生。私は特別な信仰者ではなく、普通の信仰者です。でもこの時ほど、クリスチャンでよかった。信仰を持っていてよかったと思ったことはありません。」と。次の日曜日に教会で他の方々にそのことを告げると皆涙を持って彼女のために祈りの時を持ちました。そこで彼女も泣いた。その涙のわけを彼女がマイクの前で語りました。「みなさん。私は悲しくて泣いているのではありません。嬉しくて泣いているのです。
こんなに多くの人に祈られてなんと幸いなんだろう。」と。
彼女は余命半年と言われたにも関わらず二年間の闘病生活を送り、最後は「本当に私は幸せでした。ありがとう。」と病床で教会の方々にビデオメッセージを送り、天に召されたのでした。
「信仰者の死は、死に呑みこまれるのではない。死を乗り越えるものなのだ。」という言葉が心に残りました。
病が彼女の命を奪ったのではなく、神がそれ以上彼女を苦しみにおかず、天国人として相応しく整えて、そして彼女は天国の階段を上げられたのだと。
主の名を呼び求める者全てに与えられる永遠のいのち。
私たちは、どこに私たちの目を向けているだろうか。何を見て生き、何に対して熱心だっただろうか。イエスキリストこそ、神様が私たちのために用意してくださった救い主であり、天国へと導いてくださるお方。このイエス様から目を離すことなく、焦点をしっかりと合わせて、天国までの階段を一歩一歩導かれていきたい。主の励まし、そして導きに感謝します。
礼拝後は洗礼式でした。
姉妹のお証に、主の憐れみ、深い愛と選びを思い、素晴らしいタイミングで主が姉妹に働きかけて救いの道を示され、姉妹がこの救いの福音を自分に与えられたものとして受け取り、恵みに与ったこと。深い感動を覚えました。
心からおめでとうございます!!!!幸いな時でした。ここから天国まで与えられた道のり、キリストに似たものと変えられ成長させられ主にますます喜ばれる歩みでありますように。祈りつつ
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。ヘブル12章2節」 聖書
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