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イエス様の質問*ルカ書10章25〜37節

歩いていたら紫陽花の花が咲いているのを見つけました!5月も半ばを過ぎ、梅雨の時期へと移行していきます♡
さて、礼拝はルカ書より「あなたはどう読んでいるのか」と題してメッセージ。
この箇所は「良きサマリヤ人」というタイトルがつけられているイエス様のお話された有名なたとえ話です。小さい頃から聞きなれたお話です。
CSで。牧先生がお話の初めに「もし、道路で牧先生がこんなふうに倒れていたらみんなどうする?」と聞くと「うーん。学校に行って先生にいう!」「放置する」
ガクッ😆と、大笑い。皆でこのたとえ話を聞きました。
「あなたも行って同じように(サマリヤ人がしたように愛の行動を)しなさい」わかりやすいお話です。
しかし、その後の礼拝で語られたみことばはもっと深い意味があったのだと今更ながらに、初めて気付かされました。
①神の言葉をどのように読んでいるか。
ここで、イエス様に質問をしてきた人は「律法の専門家」とあります。そして彼は「イエスを試みようとして」(25節)悪意を持ってイエス様に近づき質問をしてきました。
「先生。何をしたら永遠の命を持つことができるでしょうか?」と。
彼にとって、死んだらどうなるか。死をどのように捉えたらいいのか。それは大きな問題でした。そして彼は、このイエス様という素晴らしい教育者を前に質問したのです。
しかし、イエス様は彼の「試みようとする態度」に対して、それ相応の対応をされたのだと語られました。
今まで、不思議に思わなかった自分が不思議ですが(・_・;イエス様は彼に対してこのような返事をされています。
「律法には、なんと書いてありますか。あなたは、どう読んでいますか?」(26節)
私は今まで「良きサマリヤ人のたとえ」に心が行き、ここはさらっとイエス様のこの言葉を流して聞いたり、読んだりしていました。
しかし、大切な箇所であることを知り、目が開かれたような気がしました。
この律法の専門家は、答えるのです。
「あなたは力を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。また、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。とあります。」(27節)
イエス様は彼に対して「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすればいのちをえます。」そう答えられます。
しかし、これが本当に正しい答えであったのかというとそうではなく、
イエス様は皮肉を持ってこの専門家に応えられたのだと語られました。
この律法の専門家の根拠としていることはレビ記の18章5節です。
「あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である。」
つまり、あなたがたが神の掟を守るなら、それによって生きる。だからそのように行いなさい。ー「行い」によって「良い行い」によって、そして律法を守ることによって人は救われ永遠のいのちを得るのだと。
しかし、聖書のいう救いは、いくら人が善行を積んだところで、律法を守り尽くしたところで、それが救いに至ることはないとはっきりと教えるのです。
私たち人間は天地創造のアダムとエバの罪以来、ずっとこの罪の原理に縛られ生きてきました。いくら、自分の努力で教えを守ったところで、人間には限界があります。
パウロは「信仰義認」について語ります。人は「行い」ではなく、一方的な神様の恵み「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのだ」と。
ルカ18章には「ある指導者」がイエス様に「何をしたら私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と質問してきています。その彼にはイエス様は真面目に応えておられます。なぜなら彼が真面目に質問してきたからです。
イエス様を試そうとして近づいてきた今回の律法の専門家には「あなたはなぜわたしに対して真面目に向き合おうとしないのか」と「あなたは律法をどのように読んでいるのか」とそう問われていたのです。
パウロのことが語られました。「私こそよく律法を知っているのだ!」と自分を高くした律法の専門家のように、改心する前のパウロも自分を高くする者でした。ガマリエルに師事し旧約を丹念に学んだ生粋のユダヤ人パリサイ派として、彼はイエス様への怒りで満ちていました。「自分が学んだメシヤと全然違うではないか!神の子が死ぬはずないではないか!」と怒りと情熱を燃やしてキリストに敵対し、キリスト者を迫害する者だったのです。
ルカ14章11節にはこのようなみことばがあります。
「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
神の前に心低く、ひざまずき幼子のように心を低くするなら、神様はそのような者に、みことばの真理を開き、建て上げてくださるお方なのです。
来週のみことばはマリヤとマルタのところから語られる予定ですが、イエス様はマリヤを見てマルタに言われました。「一番大切なことを彼女は選択している。だから彼女の妨げになってはいけない。」と。
神の言葉に真剣に向き合っているのか。私に与えられる神のみことばの意味を教えていただき、ここに生きることができるように私を変えてくださいと神に近づく時、神は近づいてくださるお方なのだと語られました。
②どのように読むべきか。
このサマリヤ人のたとえを通してイエス様は2種類の態度があることを示されています。
道に人が倒れているーこのような珍しい場面に人が遭遇するとき、その人の人間性が表れてきます。ここでサマリヤ人がとった態度。現代を生きる日本人の私たちにとって、親切で思いやりのあるこの態度は人として至極当然のように見えないでしょうか?ところがここで忘れてはならないことがあると語られました。
それはこの背景がイスラエルであり、ユダヤ人として、この箇所を見るということです。日本人の私たちにとっては当たり前の話ではないかと思われるところですが、サマリア人との緊張関係があった上に、その律法に従って生きていたユダヤ人にとってこのたとえ話は、違う理解を求められるところとなりました。
この強盗に襲われて半殺しにされ倒れていた人を、助けなかった祭司とレビ人は、どんな人だったか。彼らは単なる不親切で冷酷な人ではなく律法に立ちそこに真面目に生きる人々でした。その律法によるならば「死んだものに触れてはならない。」ーもしも触れてしまったら一週間ものあいだ人々から隔離されなければならないーそのような定めを遵守することは当然なことであったのです。
イエス様がここで強調されているのは、律法に書かれていることを守りそこに生きて、この人が見捨てられても仕方ないということはあるのか?イエス様がここで彼に「律法にはなんと書いてありますか?あなたはどう読んでいるのか?」と投げかけられた言葉が、まさにこの一連の彼との会話で一番重要なことなのでした。
これは私たちにとっても聖書のみことばをどのように読んでいるのかということに直結することであり「みことばを実行する人になりなさい。ただ聞くだけのものであってはならない」というみことばの通りに、みことばに真摯に向き合い、そこに生きようとしているのか。
この専門家の問題点はイエス様への受け答えからもわかるように、自分はみことばを守って生きている!と自信を持ってイエス様と対峙している姿であったと語られました。
神のみことばを聞いても、その心が取り扱われなければ、みことばの種をすぐにサタンが持っていってしまう。しかし、その心にしっかりとみことばの種が落ち、そして、その言葉に照らされる時に、私たちはみことばに刺され、痛みも味わい、神の前に自分を正当化などできないということに気づくのです。「私は欠けている」と自覚に追いやられるのです。
私たちはそうして、みことばに照らされ、生かされながら、そのような中で与えられている感情に促された行動を起こしてゆくべきなのだと語られました。
神様は愛のお方であり、このお方と親しく交わるときに、私たちは愛と憐れみを与えられ、神の代理人としてこの世界で生かさせていただくことができるのだということ。
なぜイエス様が安息日という規定をガンガン破られるようにして多くの病人を癒やされていったのか、と語られました。ユダヤ人たちが必死に遵守していた律法である安息日の度に、イエス様が苦しむ人々を救いお癒しになっていった。それに食ってかかるように大騒ぎして敵対した律法学者や祭司たち。
イエス様の問いは「あなたは律法(聖書)をどのように読むのか?」どういう読み方をしているのか。律法によって愛情・憐れみを止めてしまうのでなく、神の愛に生きなさい、と。
そのような深いメッセージがここにあったのです。
サマリヤ人のように善行に励み、親切な人になりましょう、ではなく、この真のイエス様からのメッセージを受け取り、みことばを読み、その愛こそに生きる者とされたいと切に願わされたことでした。
新しい発見がとても嬉しく感謝です。
「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で、一番優れているのは愛です。 第一コリント13章13節 聖書」