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イエスさまのまなざし*ヨハネ18章12節〜27節受難週


今日はエスカレーションサンデーで、子ども達の進級・進学を祝福するひとときを持ちました。こどもタイムでは、「モーセの十戒が教えている最も大切な二つのことは何ですか?」という質問。

「うーん。盗んではならないと嘘をついてはいけないは覚えてる!」とリーダーくん。

すごいねえ。よく聞いてるねえ。

「神様を愛し、人を愛することです。」ふむふむ。

そしてマタイ22章37〜39節を皆で読みました。

「心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くしてあなたの神・主を愛しなさい。」

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

CSでは受難週で、イエスさまの十字架についてのお話を聞き、工作や、ゲーム楽しいひとときを過ごしました!


礼拝はヨハネ18章12節〜27節より「不当な訴えと真実な証」と題してメッセージ。

❶恐れに負けたペテロ

 12節〜13節。捕らえられたイエス様がアンナスのところへ連れて行かれた記事です。

本来なら大祭司が取り仕切るサンヘドリン議会というところですが、大祭司アンナスのところに連れて行かれたイエスさま。

 アンナスとは誰かというと13節でその年の大祭司であったカヤパのしゅうとであったと書いてあります。

 

大祭司はユダヤ社会の頂点トップであり、会社で言えば社長というところでしょうか。

大祭司が世襲制をとるということは権力を一族が掌握することであり、このアンナスという人はピラトの前任者が退任に追い込んだ人であり、その時に、婿を大祭司につけて自分も権力を持ったままでいようとしたことがわかります。


このような姿を見るときに、霊的なリーダーでもあったはずの大祭司も人の意向によって、なるように成り下がってしまったということをみるのです。教会の牧師職も稀にこのように世襲制となってしまっている場合があります。それは教会が私物化される危険もあります。教会は誰かのものでなく、一つの牧師家族によって支配されるのではない、神に召された人々が共に集められ、たて上げられてゆくものだからです。


さて、このように祭司長・律法学者たちが与してイエスさまをゲッセマネの園で捕らえた夜。驚くことにイエス様の裁判はその夜中に行われました。裁判といえば何ヶ月・何年もかかるのが普通ですが、一日のうちで判決が出るように、夜中に裁判を行ったのです。

イエス様を、この一人の人をいかに葬り去れるか。殺すことができるのか。3年もかかった。指導者達の息のかかった祭司長・律法学者たちが呼ばれ、人の思いのままに強引に行われていった仕組まれた裁判でした。


このような流れの中。イエス様の十二人の弟子のうち、二人の弟子がそこにいたことが記されています。一人はヨハネ。ヨハネは大祭司の知り合いだったのでその中庭にまで入っていった様子がわかります。(13節)

もう一人はペテロ。ヨハネがさっと入っていったのに、ペテロは入れなかった。

なぜか。それは怖かったからではないか。そう語られました。


ゲッセマネの園で、イエス様が捕らえられた時に、ペテロは大祭司のしもべの耳を切りおとすほど勢いよく、イエスさまについていくのだ!と果敢に挑もうとしていた人です。しかし、この騒然とした流れの中、彼の心は次第に恐れをもち、3年という月日、寝食を共にしたイエス様に対して「傍観者」となってしまったのではないか。そう語られました。


ペテロはイエスさまのみわざを見、お言葉の権威も知り、イエス様が「あなたはわたしを誰だというか」と聞かれた時に、「あなたは生ける神の御子イエスキリストです。」と告白しました。その彼が、この時は傍観者の一人として十字架をみることになったのです。


カトリックの教会の十字架にはイエスキリストの像があり、プロテスタントの十字架にはイエスキリストの像はありません。それは、十字架には罪のないイエス様がついてくださったけれど、本来は、罪にけがれた私たちがつけられねばならなかったこと、私たちは傍観者ではなく、責められ罰せられて、私は罪人ですと告白せねばならない、そのことを決して忘れてはならないということ。身代わりに十字架にかかってくださったイエス様と同時に当事者意識を持つことの大切さを示されました。


ペテロはのちに使徒2章23節で語っています。

「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなた方は律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。」と。

このペテロの言葉に心突き刺された人々3000人が、主を信じ教会に加わることとなりました。


あの大祭司アンナスの家の中庭に入ることもできず、イエスさまを3度も知らないと否み、「傍観者」であったペテロが、のちに大胆な信仰告白を持って人々の心に迫り、キリストを主として宣べ伝えていくものに変えられていった、私たちもまた恐れず、「大丈夫」といってくださる主にあって、大胆に宣べ伝えるものへと変えられていきたい、そう思わされたことでした。


❷イエスさまは真実なお方である。

19節〜イエス様が大祭司によって尋問される様子が書かれています。

裁判自体が適切に行われず、正しい裁判が行われない中、苛立つ祭司長たちの様子に対して毅然とお答えになるイエス様のお姿を見ます。

人は理詰めで責められると、感情が湧き上がってきて、怒りの感情を表したり暴力を奮います。この時も、22節において、祭司の下役の一人が、イエス様のことを平手で打ったと書いてあります。


大勢の圧力や暴力(力)に責められると、人は「わかりました」と屈服してしまうのが常です。しかし、イエスさまは違った。

23節で、イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」そう言われました。

アンナスはそれ以上言えなくなってしまった。


イエスさまの強みとは何だったのでしょうか。

第二テモテ2章13節

「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」

偽りの力と真実が戦うときに、真実の方が強いのです。たとえ偽りの方が大きな多数の力を持っていたとしても、しかし、真実はどんなに曲げようともそうはならない。

真実が明らかにされる時に、そうでないものが排除されていくのです。


❸イエス様の慰め

ペテロにとって自分の身を守るためにイエスさまとの関係を否定したことは、一生彼の傷になったに違いありません。

 私たちはこのようなペテロの姿を見た時、信仰の代表格であるペテロでさえ失敗したなら、私たちも仕方ないと思うでしょうか。

 ある先生は、「慰めはどのような時に受けるか。自分と同じような仲間を見つけた時に慰められる。」と言いました。何か失敗した時、同じように失敗した人を見て、慰められるということ。しかし、聖書が教える慰めは「憐れむ」とか「悔い改める」という意味を持った言葉が訳されている。自分自身が変えられることを通して慰められるということ。


ヨハネの福音書は他の福音書に比べて見ると、このペテロの大失敗を簡潔に書いています。ヨハネは、信仰者は失敗しても良いということではなく、私たちの姿を重ね合わせつつ、イエスさまはそのペテロに何をしてくれたか。イエスさまはどう見ていたのか。

そのイエスさまの優しいまなざしに本当の慰めを得る。


私たちはイエスさまを見上げることなしにまことの慰めを得ることはできない。

イエスさまは失敗する私たちに対して恐ろしい顔をされるのでなく、大丈夫だよと優しい眼差しを持ってまるで小さな子どもが失敗しても、温かく見つめる親のようにいてくださる。


失敗して弱い私をなお、温かい眼差しで、大丈夫だよ。立ち上がれるよ。わたしがあなたを支えるから!そう励ましてくださっている。


私たちは、その眼差しに力を向けている限り、力を与えられる!

そこから目をそらさないで、あゆむこと。

失敗だらけの弱い私ですが、主よ、どうか今週も助け導いてください❣️と祈らされたことでした。優しいイエス様の眼差しを見つめる一週間でありますように。


「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されたのです。       ヘブル12章2節    」聖書


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