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みことばへの信頼*ルカ7章1〜10節

更新日:2022年2月15日


ずっと待っていたヒヤシンスの球根から、こんなに綺麗な花が咲きました☺️ヒヤシンスは香りも強いですね。気温が低く寒い玄関にも楽しみが生まれました。


さて日曜日のズームでCS

楽しいゲームタイム。このお題は「パンといえば?」皆自分の好きなパンを😁

年中さんの🟡くん、可愛い絵💕焼きそばパンが好きなんですね☺️

他にも「赤といえば?」「甘いものといえば?」唯一答えの揃ったものは、「強い動物といえば?」みなさんも想像の通りです😸


CSのお話は「中風の人」からでした。お話の最後に暗唱聖句をしました。

ここで、密かに感動したことがありました。

土曜日に「信仰の根は何だと思う?」と家族で話をしていたのですが、

さて何でしょう❓

答えは「確信」でした。

そうなんだな。「確信」なんだな・・・。としみじみと考えていましたが、


今週のメッセージを担当し、入念にzoomのために備えてくださったCSスタッフのA姉。暗唱聖句を読み上げた後に、

「さて、この信仰とはなんだと思いますか?」こう聞かれました。

そして、すぐに

ヘブル11章1節を引用され、「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と回答を説明してくださったのです。

素晴らしいなあ・・・と驚きました。

(「これは私のチカラ・努力でないことを100%確信します‼️」by謙虚なA姉☺️)


そして、更には、礼拝のメッセージにもびっくり、中風の人の話が出てきました。



礼拝のみことばの箇所はルカ7章1節から10節。百人隊長のしもべの癒しの箇所です。

❶百人隊長の謙遜

2節で、百人隊長が自らイエス様のもとを訪れたのでなく、あえてユダヤ人の長老を送ったのは何故か。それは、自分自身をわかっているが故に、イエス様に対して配慮をしたためだと学びました。


彼の姿勢は、「私は選ばれたユダヤ人ではなく異邦人であるから、自分から何かしていただけるものではない」とわきまえ知っていたというのです。

彼は、神に選ばれたという意識の強いユダヤ人のために、会堂まで建ててくれた人だと記されています。そんな彼をユダヤ人たちは「理解してくれる人」と一目置いていましたから

隊長の願いをイエス様の元に運んできました。


ところがです。道中もうすぐというところで、隊長はまたしても使いを出します。

「イエス様。ご足労いただかなくても大丈夫です。」と。

なぜ、ここまできて、そんなことをまた申し出てくるのだと思われる箇所ですが、


隊長は、イエス様のような尊いお方をどうして自分の家に入れることができましょうかと、

また、更には、当時、罪人と思われていた取税人(マタイとその友達の宴会の場)や病人のところに招かれ、呼ばれたら非難されたとしてもそこへ赴いていかれたイエス様に迷惑をかけたくないという深い隊長の配慮があったことを知り、感動しました。


ここで第二列王記に出てくるナアマン将軍の話も出てきました。


アラムの将軍ナアマンはツァラアトという重い皮膚病に冒されていました。エリシャの元に来れば、治してもらえると聞き、多くの高価な品々を持ってはるばるイスラエルにやってきます。彼は思っていました。私のような地位ある者が来るのだから、当然エリシャは、丁寧に応対し、厳かに私に触れて癒しの行為をして、私は癒やされるのだろうと・・。


しかし彼のプライドはズタズタにされました。エリシャは挨拶にも出ないどころか、使者をよこして、ヨルダン川で7回身を浸せという。

自分の国の川の方がよっぽど綺麗だ!とナアマンは怒りました。


権威あり、抜きん出た人というのは、いつの間にか自分を引き上げてゆく誘惑にあります。

百人隊長もこのナアマン将軍ほどではなかったにしても、部下があり、権威を持っていた人でした。

しかし、彼はひたすらに自分を低め、イエス様を自分の家に入れるなど、そんなことは相応しくないと、謙遜の限りを尽くしたのでした。


私たちも、このような態度で主の前に出ているだろうかと、自分は神の前に、神を悲しませる小さき者であり、しかしこのようなものを救ってくださり、憐んでくださり、更には

この内に住んでくださるという、なんということでしょうと感動し憐みをひたすら乞う者とされたいです。


❷神のお言葉を求める者になりましょう


百人隊長は「ただお言葉をください」と言いました。

それは彼自身が言葉のもつ権威を知っていたからです。

自分の言葉を部下である兵士たちは聞き、それに従う。権威のあるものが命じるなら

それに従うという道理がわかっている中で、「ただおことばをください。」と

言ったのです。


また、百人隊長は、「私は権威を持っているが、しかし、イエスさまは癒し、回復させる命に対して権威を持っておられる。しもべの命に、病に命じてくだされば、そのお言葉の通りになる」という信仰・信頼を働かせたのでした。


ルカにおいて、中風の人やヤイロの娘が癒される話が出てきますが、周りの人の熱心さ、イエスさまどうか触れてやってくださいという、その信仰に応えられるイエス様の姿があります。


ところが、この隊長には、それを当然のことと求めず、イエス様を招いたり、触っていただくことでなく、お言葉ひとつで癒やされるという信仰があったのです。


9節でイエス様がこの隊長の言葉に「驚き」褒められたことが書かれています。


❸神はまず「信じること」を求められる


この百人隊長の言葉に対して、マタイ8章13節においてイエスさまの言葉は

「行きなさい。あなたの信じた通りになるように」と書かれています。


英訳では「信じた通りに」を「信じたので」と訳しています。

イエス様がおことばをくださるなら、癒やされると信じた隊長としもべに対して与えられたみことばです。

ただ「行きなさい」と言われて、帰ってみたら、しもべは癒されていたのです。


人は結果を見ると確信する。しかし、この時、結果が見えていないのにもかかわらず、信じた。そうしたら、その通りになった。彼のイエス様に対する信仰です。


私たちも、全知全能の主、神がおられると使徒信条においても告白します。

このお方の元に私が今いるのだということを、私に、このお方が目を配り、子としてくださる、そのことを確信し、主のみことばに信頼し委ねてゆくべきことを示されました。

感謝します。


「信仰は、望んでいる事を保証し、目に見えないものを確信させるものです。

                     ヘブル11章1節   聖書」



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