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こんな美しい朝に・・イースター*第一コリント15章12〜19節


イースター主の復活を心から喜び、感謝します!

金曜日の受難日から土曜日。そして日曜日。イエス様がよみがえってくださったその朝を想い、朝一番に復活のキリストの映画を観ました。主の復活された朝、まずイエス様が現れてくださったのは、マグダラのマリヤでした。無力な一人の女性。でもこの女性が「このことをわたしの兄弟たちのところに行って伝えなさい。」とイエス様に命じられて走ったこと。


それから、弟子たちのところに次々と現れてくださったこと。エマオの途上で諦め切った二人の弟子たちのところにそっと近づきずっと共に歩き、聞き、語ってくださったこと。

復活のイエス様のことを思うと心躍ります。


二宮は春一色、こんなにもと思うほど多くの種類の花々が咲いていますが、2000年前の復活の朝はどんなだったのでしょうか・・・。

水野源三さんの詩をふと思い出しました。こんな詩です。

「空には夜明けとともに

雲雀が鳴きだし

野辺にはつゆに濡れて

すみれが咲き匂う


こんな美しい朝に

こんな美しい朝に


主イエスさまは

墓の中から

出てこられたのだろう」



子どもたちともイースター特別プログラムで、お祝いしました。

CSの先生や婦人が作ってくれたイースターエッグ探しや、プラ板で作った作品🌟

会堂には、桜と共に活けられた美しいユリの花の香りが広がり、爽やかな朝です。


今日のメッセージは「なぜよみがえりを信じるのか」と題して、第一コリント15章12〜19節より


 福音というのは、「神の一人子であられるイエス様が、この世に生まれてくださり、そして私たち全ての人間の罪をその身に全て引き受け、身代わりになって十字架で死んでくださり、三日目によみがえってくださった。」ことです。

私たちは、家族や友人が亡くなると別れを体験します。しかし、そこから先のよみがえりについては、未知の世界であり、見たことのない光景をイメージすることは難しい。イエス様の十字架までのイメージは鮮明だけれども、そこから先のよみがえりとなると、ぼやけてしまう。しかし、よみがえりを含めて、が福音であること。


❶よみがえられたイエス様に心を留めましょう。

12節にコリント教会には、「死者の復活はない」という人々がいたということが記されています。それはよみがえりの主を信じる聖書に対立する考えであり、パウロは、このような人々を問題視しました。ローマ4章25節には「主イエスは私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」とあります。

私たちキリスト者にとって、「イエス様が完全ないけにえであることの証明が、よみがえりである」のです。


ある宣教師の例えが語られました。

「宣教の必要のために抱えた多額の借金を期日が迫っても返すことのできない状況に追い込まれた宣教師が途方に暮れていると、貸主をよく知っているという友人が仲介役を買って出てくれて、早速貸主のところに赴いてくれた。貸主はこの友人の話を聞き、状況を理解して、『よし、それでは、その全額は宣教師に捧げましょう』と言ってくれた。

この喜ばしいニュースを是非とも宣教師に伝えねばと思ったが、久々に再会した喜びで、貸主はこの友人を引き留め、あろうことか、その友人は3日もそこにとどまった。

当の宣教師は、借金がどうなったか、友人は帰ってこないし連絡はないしでヤキモキ待ち続ける。待ち続けてやっと帰ってきた友人に借金が帳消しになったことを知り、安堵した。」


私たちの罪も、キリストの十字架によって全て支払い済み、精算されました。

それがわかるのは、イエス様がよみがえってご自身を示された時である、ということです。


パウロは「イエス様がもしもよみがえられなかったら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」15章14節、また

「もし、私たちがこの地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちは全ての人の中で、一番哀れな者です。」とも語っています。


しかし、イエス様は、確かによみがえってくださった。イエス様は「あなたは見たから信じるのですか。見ないで信じる者は幸いです。」と言われました。

疑い深いトマスや多くの弟子たちの前に現れてくださり、40日という間、一緒に過ごしてくださったのです。



イエス様が十字架にかかられてから、逃げ回り、戸を堅く締め切っていた弟子たちは、この復活の主に会い、イエスこそ救い主、主だとエルサレムで大胆に宣教する者へと変えられました。

イエス様に触れられ、その心が燃やされ、彼らは変えられたのです。

私たちもこのイエス様に、実際に会ったことはないけれど、確かにここに共に居られることを信じ、イエス様がよみがえり、救いを完了してくださった、そのことに大いなる喜びと感謝を覚えます。


❷復活がないなら・・

コリントの教会というのはあまり良い教会ではありませんでした。というのも、この世の価値観にどっぷりハマり、いや、この世よりひどい罪の放縦に身を任せ、大変乱れた教会であったということです。


「肉体の罪は、魂に影響はない」というギリシャ哲学に影響された堕落した信仰の状態でした。「罪人なのだから、悔い改めたって変わらない、俺は俺でいいんだ。悪を行ってもイエス様は十字架にかかって死んでくれて、救ってくれたから」といった姿勢。


しかし、主は「わたしは聖であるから、わたしを拝するものも聖でなければならない。」と言われました。そのままにしておいて平気ではいけない、罪を犯し続ける愚かさに気づき悔い改め、罪の中にとどまろうとせずに変えられていく、変えられていきたい、というのがキリスト者の姿であること。


礼拝を守り、宗教的リーダーの一つであったサドカイ派の人々に向かって、イエス様は「パン種に気をつけよ。」と言われたのです。世俗的なあり方、この世のことしか考えていない、死後の世はない、復活などない、そのような考え、生き方に気をつけなさいと言われました。


今の世もまた似ているということ。「人生80年、100年。人生を思い切り楽しんで思い通りに幸せに生きたらいい。」「正解は一人一人が持っている。」という個人主義の時代。

しかし、イエス様は、「気をつけなさい。思い違いをしてはいけない。あなたがたは聖書も神の力も知らないのだと。」と言われました。


20節に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあります。

家庭菜園をしていると、「最初の実が実るなら、その後も実る」ということを体験するそうです。例えばトマトの実も、最初の花が実らなかったら、ホルモン剤を用いたり、受粉させて工夫するというのです。

私たち主を信じる者たちも同じです。キリストが初穂となってよみがえってくださった。ゆえに、ブドウの木イエス様に連なる枝の私たちも終わりの時に、よみがえり永遠のいのちを持って主と共に生かされる希望があります。


私たちが、どんなに自分でもがいても、どうしようもない「死」

しかし、私たちの主キリストはこの死の力を打ち破ってくださった方。

福音の力、キリストの復活の力。被造物のどんなものも、私たちをこの愛から引き離すことはできない。


愛する我が主。今週もこの復活の主。初穂となってくださった主を見上げて歩む時でありますように!!!!


「神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」第一コリント15章57−58節     聖書


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