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「無力な私だからこそ」*5千人の給食・ルカ9章10〜17節

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更新日:2024年7月19日



「あなたがたがあげなさい」というタイトルでルカ書より。



❶キリストの心を私の心にするということ


イエス様は、ご自身や弟子たちの休息のためにと「ひそかに」ベツサイダという町に退かれました。常に人々の必要に応え、人々に語り、人々に追いかけられるようにして過ごされていたイエス様と弟子たちが、ひっそりと向かった町です。ところが、人々はこのことを知るや否やイエス様を追いかけてきました。


その彼らに対してのイエス様の態度にとても心打たれます。

11節「イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また癒しを必要とする人たちを治された。」と。


イエス様がそのように言われたのは、彼らが羊飼いのいない羊のようであったからだとマルコ書に記されていることが語られました。羊は羊飼いがいないと生きてゆけない弱い存在です。イエス様は追いかけてくる群衆を見てその羊たちのように思われ憐れまれ喜んで受け入れてくださったのでした・・・。イエス様の大きな愛を思います。


そして日も暮れそうな中、弟子たちは、この群衆に食事を与えることなど出来ないし、いい加減彼らを解散させてくださいとイエス様にいうのです。

その弟子たちに向かってイエス様が言われた言葉が今日のみことばの題でした。

「あなたがたが、あの人たちに食べるものをあげなさい。」


この5000人の給食の記事は4つの共観福音書全てに記されている記事だとメッセージの冒頭で語られました。他の福音書にはイエス様がこの言葉を言われたのはお弟子のピリポであったことが記されています。なぜピリポ?それは、ピリポがこのベツサイダの町の出身であったというのです。へえ・・そうだったのか!と改めて、聖書を開き再確認しました。

イエス様は、この町にはなーんにもない、人里離れたところで、5000人の人に提供できる食料を持ち合わせている店など何もないことをよく知っているピリポに、言われたのです。


さらに当然弟子たちには五千人(女性や子どももいれたらその二倍?の人数)の人々に配る大金もありませんでしたから、これは師からのかなり大きなテストでした。

しかし、イエス様は、弟子たちにご自身が持っておられる「憐れみの心」を知ってほしいと願われたのだろうと語られました。

20年、30年前?くらいに流行した言葉に「WWJD」(What would Jesus do?)があります。

「イエス様だったらどうされるか?」

ピリピの2章1節から5節までが語られました。

「・・・・何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれたものと思いなさい。それぞれ自分のことだけでなく、他の人も顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」

この5節のみことばの文語訳は「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」という言葉だそうです。この訳がとても心に残りました。


イエス様に直にお会いしたことがありません。イエス様のお姿を見たことがありません。

イエス様のように考えることなどなんと難しいことでしょう。

しかし、イエス様だったらどうされるのか。常に追い求めて行くことの大切さ、イエス様の心を私の心とすることの大切さを思いました。


❷イエスは弟子たちに奉仕をする力を与えられるということ


イエス様に「あなたがたであげなさい」と言われた弟子たちは困ってしまいました。

まずはそんなお金どこにあるのでしょう。目の前におびただしい数の群衆がいます。

別の福音書では、少年が持っていたとありますが目の前にあったのは「5つのパンと2ひきの魚」だけ。

こんなもので、どうなるか。

弟子たちは自分達の無力さを、それこそひしひしと感じたことでしょう。

先生は何を望んでおられるのか。どう答えたら良いのか。


弟子たちが感じたこの「無力さ」。イエスさまがこれから事をなさろうとするときに、一番必要だったのは、実にこれだったのだと語られました。神様のみわざがなされる時に、「私にはこんなものがあります!」と誇って出すならば、自分が無力であることの自覚がないならば、本当の意味での主の働きはなされないのだと。


神様は弱さを知っている人を用いられるということ。弱さを知っている人は、自分が何かを与えることができるとは考えません。人に分け与える恵みや力はただ神様からくるのだと、心底理解し、神様に従おうとするのです。神様はその人こそ用いられるのだということ。。。


神様は自分を力ある者と誇るものを用いられず、心砕かれ、心低い者を用いようとされる方であること。力ある神さまが、力ない私を、弱い私を用いてくださる。そこに立つときに、神様の大いなる力を経験する者としてくださるのだと改めて示されました。


❸イエス様は献げられるものを用いてみわざを行われるということ




弟子たちがイエス様の前に持ってきたものは、「こんなもの・・・」と思った少年のお弁当でした。あまりに小さくお粗末なものでした。しかし、それを持ってきた少年の信仰をイエス様はどんなに喜ばれたでしょうか。そして、そのような小さな価値のないようなものであっても精一杯のものを持って主の前に立つ時に、主はそれを何十倍、何百倍にも祝福されて人々を満たされたということを覚えたいです。


ナイチンゲールについて語られました。

改めて私も調べました。裕福な家に育った少女でした。しかし彼女は17歳の時に、神様から召しを受けて、看護師になり、イタリアからイギリスに渡ってキリスト者の看護師としての訓練を受けます。そしてクリミア戦争勃発。ロシア対トルコ・イギリス・フランスの連合軍との激戦区にナイチンゲールは仲間たちと向かいます。そして敵味方関係なく看病に徹し、その働きはやがて赤十字への運動となりました。


ナイチンゲールは、初めからこのような大きな働きをしようと先を読み、綿密な計画をたて、実行に移したのか。そうではありません

彼女は自分のできることを、神様に尋ね、ただ日々従い続けることに徹して行ったとしか言いようがありません。そしてその彼女の働きを神様は大いに喜び、大きな働きへと祝福し、成長させなさったのだと語られ感動しました。

小さい頃に、母が偉人伝をたくさん購入してくれて、それらを読むのが楽しみでした。ナイチンゲールの話に感動したことを思い出し、改めて今日また教えられました。


私が持っているもの。小さくて貧相なものかもしれない。しかしそれを神様が「持ってきなさい」と言われたら、ただ差し出すものとなりたいです。私の弱さも至らなさもすべてをよくご存知の主がそれを祝福に変えてくださることに信仰を置いて。


「汝らキリストイエスの心を心とせよ。ピリピ2章5節」聖書



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