暖かい春がやってきました。桜の蕾も開き始め、美しい花の色でいっぱいです。
今日は「エスカレーションサンデー」幼稚園や小学校、高校に進む子どもたちのお祝いと、さらに進級する小学生のお友達のお祝いをしました。新しい一年が霊肉共に守られ、また大きな成長のひとときとなりますように、皆でお祈りしていきたいと思います❣️
メッセージは、「難を逃れたダビデ」と題して第一サムエル記より。
先週は一国の王に命を狙われるダビデの姿を見ました。もはや、ここまでかと思うような状況においても、彼は神様のご計画のうちに守られていくのです。
サウル王も初めは心が綺麗な青年でした。しかし、王位についてから神との関係が壊れていく中で、彼を支えたのは「王位」であり、彼はこの王位を守り、息子ヨナタンに継承してゆくことに心を注ぐことで自分自身を保っていたのでした。嫉妬に燃えダビデを殺そうとするサウル王の手からダビデの命を守るために手助けしたのは息子ヨナタンと娘ミカルです。
❶友ヨナタンのとりなし。
ダビデを殺したいと願い、それを全ての家来に告げたサウル(1節)に向かって、ダビデを非常に愛し(1節)心結びあったヨナタンの契約の真価が問われるような場面です。(18章3節)その契約とは、ダビデが危険にさらされるなら、命懸けで守るという契約であり、その証として、ヨナタンは彼の武具や服をダビデに渡しました。
4節で「ヨナタンはダビデを弁護し」とあります。彼は、嫉妬に怒り狂う父親に向かっていうのです。「ダビデを喜んで迎え、召し抱えたのは誰ですか?戦いの場に送ったのはあなたではありませんか?
数々の戦いで勝利を得て、それはそのままあなたの功績になってるではありませんか?ダビデによる戦いの勝利は、自分の栄誉のためでなく、あなたのため、イスラエルの国のためなのです。」
サウルの燃える感情に対して、冷静に理性的に語りかけるヨナタン。ヨナタンにとっても、父サウルと話すことは、決してラクなことではありませんでした。
しかし、ダビデとの契約を守りきるために、ヨナタンはサウルとの間にとりなしに入ったのでした。ヨナタンが自分にできる最善を尽くした時に、サウルは思い直すのです。
このヨナタンの、契約に誠実な姿に教えられます。この契約は神の前に、神との間にダビデと結んだ契約であったのです。ダビデに誠実であるということは、神にも誠実であるということ。ヨナタンは、それゆえに、恐れず、執りなしに尽くしたのだと語られました。
ヨナタンのいうことを聞き入れたサウルの元に、ヨナタンはダビデを再び連れてきました。
なぜそんな危ないことを?と思いますが、もしも近くに連れて来なければ、ダビデが遠くで勢力をつけているのではというサウルの疑いがかけられることも考慮に入れたのだと語られました。
ヨナタンの姿に本当に感動します。私たちには多くの友がいるかもしれません。しかし真の友とは、ヨナタンのような信仰の友です。
私たちがうまくいっていて調子の良い時だけの友は、私たちが窮地に陥った時に逃げます。
新訳聖書の放蕩息子の周りにもそんな友はたくさんいたことでしょう。彼が全てを失った時に手を差し伸べてくれる人はその中に一人もいなかったのです。一方、ヨブ記を見ますと、ヨブには、彼の危機的な状況に、寄り添ってくれた三人の友人がいました。
ヨブは主の御許しの中で、災いに遭い、妻以外の全てを失って、腫物でいっぱいになった身体に灰を被り、町の門の外に座るのです。つい昨日までは東の国一番の金持ちで、神の前にも人の前にも正しく豊かな人でした。神に信頼され、悔い改める要素など見当たらないようなヨブがなぜですか?と主の前に崩れ落ちるのです。
そこに三人の友人がやってきます。このヨブ書の大半は三人の友とヨブとの論争になっているので、注意が向けられませんでしたが、この三人の友の姿は、まさしく真の友の姿でありました。なぜか。
ヨブ記2章11〜13節の間にこの友たちの姿が描かれていますが、彼らは、ヨブのところに来ると、声を上げて泣き、それぞれ自分の上着を引き裂き、そして、7日間、誰も一言も彼に話しかけることなく黙って、ただ一緒にいてくれたのです。
ヨブの悲しみの心を、私の心として、悲しみを共有している姿をここに見るのです。
私はこのように、誰かの本当の友になれているだろうかと思わされます。「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみなさい。」というみことばのように・・・。
そして、もしも、私たちがそのような友を得ていないと思う時にも私たちの本当の友となってくださったイエス様を見上げたいのです。
「イエス様は最高の友達」というフレーズの賛美や言葉を聞くときにそれは、少し理解が違うのではと語られました。私たちのために神であることを捨てて、人となってこの世にきてくださり、命を捨ててくださったイエス様は、軽々しく「私の友達です」と言われるような存在ではありません。王の王であられ、主の主、尊い救い主なのです。
しかし、そのイエス様が、友のような親しさを持って近づいてくださり、私たちを深い愛で包んで共にいてくださるのです。
ローマ8章34節が読まれました。
「誰が、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」
かけがえのない存在として真実の愛で私たちを愛してくださり、命を差し出してくださった方がいつも私たちを守り、共にいてくださる恵み・・・・。
❷ミカルの助け。
ヨナタンの必死のとりなしにより、サウルはヨナタンのいうことを聞き入れて誓ったとあります。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」と。
しかし、ダビデが戦いに勝利を収めると再び、サウルはダビデを槍で突き刺し殺そうとしたのでした。難を逃れたダビデをサウルは追いかけ殺そうとします。
サウルが「主は生きておられる。」と誓ったその言葉は今の言葉にすると「主の御名によって誓う」となり、本来は非常に重い言葉だそうです。ところがサウルはこの言葉を使って誓った後すぐにまた嫉妬心を燃え上がらせ、舌の根の乾かぬうちにその誓いを覆す行動に出るのです。
これは、主への言葉を、自分の権威付けのために、人々を額突かせるために、ただ使っているだけでとても虚しく、主の前に悲しいことです。
サウルの「嫉妬心」。
悪魔は強いところでなく、私たちの弱いところにつけこんでくるのだと語られました。富や権力、権威、プライド、名声・・・・。私たちは自分の弱点に気づき、自覚し、気をつけていないと、それがまさに悪魔の攻め所であるということ。悪魔は実に巧妙にそこに働きかけ私たちを支配下に置こうとするのだと。
私たちがこの弱さ、また誘惑から勝利するたった一つの方法は「祈ること」であると語られました。サウルは祈れず、ますます事態は悪い方へと向かっていくのです。
さて、このようなサウルからダビデを守ったのは、妻ミカルでした。
彼女は機転をきかせダビデを逃します。(12節)ところが、ここでヨナタンと大きな違いが出てきたのです。
ミカルは、父サウルに「なぜ私を騙し、逃したのだ」と責められると、ダビデを悪役に仕立ててしまうのです。ヨナタンは自分の身を挺して、自分の判断と言葉においてダビデを守ろうとしました。それに対して妻ミカルは、ダビデを愛していたものの自分の命を捧げることはできなかった。自分の身可愛いさにダビデを悪者にしたのです。置かれた場面で信念を変えてしまう。これでは、態度を変えてしまったサウルと、さほど変わらないのです。
ここでミカルの信仰について考えさせられます。
信仰者ダビデと結婚したミカルですが、彼女はダビデと心一つではありませんでした。
13節で彼女が偶像を持っていたことがわかります。神を信じると言いながら、神の嫌われる偶像を捨てることができず、それに心を奪われていたことになります。隠されていたのものが、この窮地で露呈されてゆくのです。
ミカルの信仰については第二サムエル記6章14〜23節の記述からも知ることができます。
ダビデが戦争に勝利して、服を脱いで主の前に跳ねたり踊ったりして入ってくるのを見て、ミカルはダビデを蔑みます。ダビデは神のなさったことは素晴らしい!と心から体いっぱいで表現し主を賛美、主に感謝しましたが、そのダビデを軽蔑するのです。このミカルを神様は祝福されませんでした。
「結婚」それは、二人の別人格を持つ男と女が一心同体となることであり、神が造られた奥義、秘義、完璧なものです。しかし、ミカルはそうではなかった。ヨナタンの友情による愛は信仰から出てきたものであったけれど、ミカルの愛に信仰は見られなかったのです。
イエス様が言われたみことばが語られました。
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるでしょうか。」ルカ18章8節です。
私たちは、神をただ信じていれば良いというのではない。神を信じると言いながら、自分自身や偶像を愛していないだろうか。もう一度自分の生き方を、信仰生活を考えるべきであると。
調子が良い時は仕え、そうでない時は簡単に捨ててしまう。
韓国は今も日々の感染者が増加しており厳しい状況にあるそうです。そのような中で、教会の礼拝出席も人数が規制されてきましたが、現在さまざまな工夫により、制限人数が緩和されたとしても、「コロナ」ゆえに、人々の信仰は冷め、礼拝に戻ってくることがない状況にあると、そのような話を聞いたことが語られました。
詩篇59篇は、この第一サムエル記の19章でダビデがサウルから命を狙われ苦しい状況にあった時に謳われた詩だと言われています。
コロナによって信仰を弱められるのでなく、主によって聖められ、強められる信仰者とされたいと願わされたことです。
「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神は私たちに臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」第二テモテ1章6〜7節
「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」ヘブル10章38節
❸神により頼む者になりましょう。
サウルに追われ、ダビデが逃げた場所は、ギブアから5㎞ほどしか離れていないラマというところでした。追手が追いつかないように逃げ切りたいならば、死海から、北にガリラヤ湖辺りまで、遠くを目指して逃げるべきであったでしょう。
では、なぜ彼が近いラマに逃げたか。それはそこにサムエルー神を信じダビデに油注いだ神の人、がいたからです。
ダビデの信仰を見させられます。ダビデはサムエルのところというよりは、「神の所」としてそこを頼っていったのではと語られました。
サウルはすぐに追手を差し向けます。兵隊を3度も送ります。ところが、3度とも主の霊が臨み、捕まえようとした兵たちは「預言した」とあります。それは「神の言葉を語る」という意味ではなく、「放心状態になり、正気を失って前に進むことができなくなった」という意味だそうです。神に捉えられ、彼らは、ダビデのことを捕らえることができなかったのです。
度重なる失敗に業を煮やして、ついにサウル自身がサムエルの元にやってきます。ところが彼までもが、衣類を脱ぎ、正気を失い、裸のままで倒れてしまったのでした。
ダビデを神様が守っておられたこと。ダビデが信仰を働かせて、遠くへ行くのでなく、神の元へ逃げ込んだこと。このような具体的な選択を主が喜ばれ、真実に応え、御名にかけて守られたことを見、またこの同じ守りが、主が認めてくださる信仰にあることを思わされたことでした。神のご計画があり、私たちのうちにそれがなされるまで、私たちは死なないということ。恐れず、主に委ねつつ、主に喜ばれる信仰の高嶺を目指して歩む者とされたいです。
「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」ヘブル10章39節 聖書
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