
箴言19章より、4つの道について学びました。
❶「誠実に歩む道」1〜3節
信仰生活は華々しい歩みではなく、ある意味、堅実で地味なことの積み重ねであること。
イスラエルの民が出エジプトの旅で、荒野を歩んだ時に、神様は天から「マナ」を降らせ民を養ってくださいました。その「マナ」はまとめて取って、蓄えて食するのではなく、
毎日毎日、安息日以外は、その日の分を取ることを求められました。まとめて取ったものは、腐って食べれなかったのです。
信仰もまた同じで、「聖書のみことば」は週に一度、あるいは何日かに一度いただけば良いのではない、私たちの霊の養いは、どんなに忙しくても日々主の前に出て、頂いてゆくものであること、それを積み上げてゆくところに大きな成長が与えられるものであることを改めて思いました。
信仰を育てたい、確実な歩みをしたいならば、毎日毎日365日私たちは、主の前に誠実にみことばの「マナ」をいただいてゆく。そうして信仰を築き上げた信仰者はいぶし銀の輝きを放ってゆく、そのように語られました。
❷「友人となる道」4〜7節
この箇所を通して、財を通してできる友は、簡単だが、長続きしない「友」であることを覚えます。ルカに出てくる放蕩息子のたとえが語られました。
放蕩息子は父から多くの財を与えられ放蕩し尽くします。その時に楽しく交わった友人たちは、この息子が一文なしになり、食べるのにも事欠いた時に、誰一人助けることをしませんでした。いざというときに本当の友として友情を示さなかったのは、単に彼の財産に惹かれているだけだったからです。
苦しい時、悲しい時に、励まし、慰めてくれる友。そのような真の友情はいつまでも続きます。
ヨブ記には、三人の友人が出てきます。災いの時、ヨブが灰をかぶり、悔い改め、町の門に座り苦しんでいた時に、この友人たちは、訪れて、そばに座り、一緒に過ごしてくれました。
彼らは、ヨブを非難するために、責めるために、そばに集まってきたのではなく、ヨブに降りかかった災いを心配し、共有し共に座って、時を過ごしくれたのです。
これが真の友人の姿です。
私たちにそんな友はいるでしょうか。
あるいは、私たちは、友に対して、そのような友になっているでしょうか。
❸「知恵を得る道」8〜12節
11節に「人に賢明さがあれば、怒りを遅くする」とあります。
「知恵」を持った人こそ、上に立つにふさわしい人です。ソロモンもまさにそうでした。
ソロモンは、神様からなんでも欲しいものを願いなさいと言われた時に、民を治めるのに必要な「知恵をください」と願いました。神様はこの願いをとても喜ばれ、それを与えられましたが、ソロモンは「知恵」を得たが故にイスラエルを正しく裁き、イスラエルには最も豊かな繁栄がもたらされました。神様の栄光を現すために、偉大なエルサレム神殿が建てられました。
このソロモンが後の信仰者に繰り返し語っていることが、この「知恵を求めて生きよ」ということです。
❹「家庭を築く道」13〜29節
父から子へ、子からまたその次の子へ。それぞれが神から与えられた主の律法、そして主を恐れる教育を与えること、これは、箴言のテーマでもあります。
みことばは、子どもが小さい頃から、ただ可愛がるだけでなくしっかりとした教育を施すことを教えています。
18節には「望みのあるうちに自分の子を懲らしめよ」と、厳しい言葉があります。
手のつけられない状態に子がなってしまった時に、それは、それまでの親の教育が間違っていたことが明らかとなることであり、子に教育を施さなかった親の責任が問われるのです。
主の教育はいつまでもできるわけではない。その一時期に与えられているということを覚えたいと思います。
主が支えてくださる。そのことを信じつつ、このように示された道を、一歩一歩あゆむ
週の残りも、祝福がありますように。
「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。
箴言19章23節 聖書」
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