ウグイスの鳴き声・カエルの鳴き声。スイスイ気持ちよく泳ぐメダカ🐟。そして近頃は教会の周りを2センチくらいの小さなカマキリが飛んでいるのをよく見かけます♡
二宮山西キリスト教会の日曜学校も毎週元気にスタート。
今日は「喧嘩していた子が急に仲良くしようといってきたらみんなだったらどう思う?」の牧先生の質問に「うーん。赦す」「考える」「二分の一なら赦す!」🤣とそれぞれ返答。
お話は先々週の続きで、ダビデの部下のヨアブと敵のアブネルのお話だったんです。
快く赦すことのできたダビデさんとそうでなかったヨアブさんから色々学びました。
礼拝は「主が報いてくださる」と題してこの箇所から。
ペリシテ人との戦いに敗れたサウル王がゲルショム山で自害し、王がいなくなったイスラエルでは誰が王になるのか。いよいよダビデが王になるのか!と期待の中、しかしすぐには全イスラエルの王にはなれず、ダビデは12部族のうちのユダ部族だけの王になり、対するサウル王の家系からはイシュボシェテが11部族の王となりその立役者アブネルが長として権力を握っていました。
そのような様々な人間的な思惑の中も、神様のご計画は着々と進み、事は神様の決められたように動いていったのです。
この神様はこんな方です。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤おして物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰ってくることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」イザヤ56章8〜11節
この偉大な神様のご計画はダビデにありました。
❶サウル家の衰退とダビデ家の繁栄
サウル家とダビデ家では存続をかけた戦いが続きました。戦争の被害者はいつも力のない子どもや老人であり、そして戦争のさ中にあって人が減ることはあっても増えることはないのです。ところがこの3章の初めには戦いのさなかにあってもダビデの家系は栄えていったことが淡々と記されてゆくのです。神様がダビデを祝福されていたのだと。
しかし大きな問題がありました。それは一人の妻から子どもが多く与えられていったのではなく、複数の妻から複数の子どもが生まれ、そのような中で家族関係が崩壊し、ダビデの晩年にはこの家族関係のもつれから、ダビデは荒野へと追いやられる、そのような期間がやってくるのです。
申命記の17章17節が開かれました。そこにはこのようなみことばがあります。「王は自分のために多くの妻を持って心がそれることがあってはならない。自分のために、銀や金を過剰に持ってはならない。」と。ダビデもこの律法を守るべきでした。ダビデは神に用いられた大いなる器でしたがこの律法を守る事ができませんでした。私たちは人間の内側の弱さをここに見させられるのです。
私たち人間には罪人としての性質があること。律法を守ることに限界があり、基準に達することは罪人ゆえに難しいこと。神の前に、人は行いによって救われることはない、ということ。その私たちであるから、神様の唯一の子であるイエス様がこの世に来てくださり、そのイエス様を信じ、見上げることによってのみ、救いが与えられることを覚えるのです。
また聖書が教えることとこの世の流れが逆であることも覚えます。
神様に召し出されて神の民とされた私たちは、この世の中に生かされる限り、この世の法の下にあります。この世は人の良きと決める法、変わりやすく罪深い「人」の考えによって変わってゆく法であり、神の定める法「聖書」とそれがぶつかる時に、もしも私たちが世の中に流され、神の証をせず、塩気を無くしてしまったら、人に踏まれてなくなってしまうのです。それゆえに聖書は私たちに塩気を保ちなさいと教えるのです。
LGBTQの問題についても語られました。聖書がなんと言っているか。私たちは常にここに立つことを思わされるのです。
❷神の御心にあることが成るということ
6節〜アブネルについて書かれています。イスラエルのユダ族を除く11部族の長として、若いイシュボシェテをたてていたものの、実質的にはアブネルが支配していたことを読み取ることができます。王の権威を受け継ぐようなそのような理解を見る中、イシュボシェテに怒り、ダビデにつく!と怒るアブネルは罪を犯した人の典型的な姿だと語られました。彼は自分の気に食わない状況になり急に激昂し、立場を変えたのです。
「わたしの願いではなく、あなたの御心がなりますように」とゲッセマネの園で祈られたイエス様と真逆の姿をここにみます。私の願いがならないのなら!と怒るアブネルの保身の姿。
そんなアブネルですが、9〜10節を見ると、イシュボシェテを王として立てたものの、彼はダビデのこともよく見ていたのでは?と語られました。
ダビデの王国の繁栄を見て、神の選びを意識し、イシュボシェテについて自分の権力を発揮したかったけれども、ダビデの上にこそ神の祝福や働きがあるのを見て心が変えられて行ったのでは。。。と。
アブネルはこの後、ダビデの元に行きます。敵であり、もしかしたら殺されるかもしれず、また殺されなかったとしても地位は同じように保つことはできない可能性があり、よく考えれば、ダビデの元に行くということはアブネルにとって不利益なことしかなかったのです。しかし、不思議なことにこのアブネルのうちにも働かれた神によって、彼は心動かされ、ダビデの元に行くのです。
神様のみわざは、神様のご計画が進む時に、人や心を介して私たちにわかるようになるのだと語られました。それゆえに私たちにとって祈るということは非常に大切であること。祈りによって周りの状況も変えられてゆくのです。
さて、ここでダビデがどうしたか。冒頭の日曜学校のこどもたちへの質問です。☺️
ダビデはこの突然の敵軍の長アブネルの訪問・申し出を受け入れました。
アブネルを通して、神のみわざがなされることを受け入れたのです。
しかしダビデの部下のヨアブはそうではなかった。彼は受け入れること、この事態を受け止めることができませんでした。アブネルが来たら、自分の地位はどうなるだろうかと考えた事でしょう。また前の戦いにおいて弟アサエルが殺された個人的な恨みもありました。ヨアブはアブネルを刺して殺してしまったのでした。
ここで、神の人と肉の人との違いが語られました。
神の人は、起こってくることを「神のみわざとして受け止める」
肉の人は、受け止めることができない・・。私たちは霊の目を持って「神のみわざを見るか」それとも肉の目を持って「人のことを考えるか」
❸神に委ねなさい
31節から民がダビデの心を知ったことが記されています。
ダビデはアブネルの死を悼みました。
そして、39節でこのような悪を行うヨアブのことを恐ろしく思う、とダビデは語っています。
第一ペテロ5章7節が開かれました。
「あなたがたの思い煩いをいっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
ダビデは恐ろしいヨアブについても、神に委ねました。
どんな状況においても平安を与え、私たちのために心配し、守り、その状況に働いてくださる神様を知り、信じ、その神様に委ねるということ。
神様の全きご支配の中にある時に、そこに文句や不平・不満はなく、神様が必ず助けてくださるという安心感が与えられるということ。
委ねるということは、神様にすべての心配や悲しみ・気持ちを差し出すことと語られました。負うべきものは負い、負えないことに関しては、神様に委ねて負う必要がない。
神が私たちに期待して委ねてくださっていることに最善を尽くし、主に従うこと。
信仰の人ダビデとヨアブの姿から教えられたことでした。
今週も主に委ねてゆくことができますように。
「人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。箴言5章21節 聖書」
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