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「ここが神の要塞」*第一サムエル記23章

更新日:6月29日


海が、とにかく綺麗です。こんなに美しい海を毎日眺められるとは、なんという贅沢。。。

そして、二宮は今至るところにみかんの花の香りが漂い、ジャスミンの花の香りと共に爽やかな潮風が吹いてきてなんとも気持ちの良い素晴らしい季節です。バラやアマリリス。そしてお花の担当の婦人が活けて下さった母の日のカーネションも美しく。

こどもたちが作った栞を布巾と共に婦人たちにプレゼント。CSでは「だるまさん転んだ」で皆大はしゃぎ。新学期が始まり、新たなスタートも守られ感謝です!


礼拝は「仕切りの岩山」と題して第一サムエル記23章よりメッセージ。


❶主の御心を求めて祈りましょう。


ダビデが逃亡中。ペリシテ人たちがユダ族の領地「ケイラ」という町を攻めて穀物を略奪したことが伝えられました。ダビデは自分の思いをわきに置き、まず主に伺います。「行ってこのペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」

そのダビデに主は答えられます。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」ダビデは決断しますが、部下が言います。

「今、サウル王からの逃亡中の身であり、人数も少ないこの状態で、なんで敵陣ペリシテ人に向かっていけるのでしょうか。」と。もっともな意見です。

彼らの声をきき、ダビデは、もう一度主に聞くのです。

すると、主が2度目にも答えられます。「さあ、ケイラに行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」


このダビデが決断を迫られるときにとった行動に深く教えられます。

私たちは、直感や自分の思いでなく、まず祈り、神の御心を求める時に、神は、様々な方法で私たちの祈りに応えてくださるのです。

さらに、私たちの傾向として、祈ったことが閉じられたように思うと、これは神の御心ではないのだと簡単にあっさりと諦めやすいのだと語られました。神様は祈っていく中で、神様の時に、御心を示してくださる。


ダビデが主に従って、ケイラの町へ行きペリシテ人と戦った時に、神様は彼らに大勝利をお与えになり、彼らは無事ペリシテ人の手からケイラを守ることに成功しました。

私たちは、自分達の状況がどうあるかではなく、神様の御心が何かを祈り求めてゆくとき、神様が歩むべき道を示してくださるということを信じなければなりません。そして、もし現状が難しいように思えたとしても、それが神様の御心であり、神様が願っておられることだと知ったなら、それを必ず行わなければならないということを知るのです。


❷ダビデを裏切ったケイラの人々

ダビデがケイラに来たことがサウルの耳に入り、サウルはダビデを捕らえるために、兵を招集しました。(7節)


ダビデは神様に、どうしたら良いのか伺います。↑当時の祭司が着けていたエポデには胸に12部族を表す12の石がはめこまれており、また二つの石を用いて主に伺いを立てるということがあったようです。黒い石は「トンミム」と呼ばれ、「行くな」という意味を示し、

白い石は「ウリム」=「行け」という意味であったとのことです。

現代の私たちは、「聖書」を通して、主が語ってくださり、みこころを示してくださり、この聖書が、単なる知恵の書や、歴史書でないことを知るのです。神のみことばは生き生きと生きており働いておられて、私たちが祈り求めるとき、必ず答えてくださるということ。感謝です。


さて、ダビデがこのエポデを通して主に伺ったのは、ケイラに残っていても大丈夫なのか。あるいは危険なのか、去るべきなのか。といったことでした。

神様の答えは、「サウルは下ってくる。そしてケイラの人々はダビデと部下たちをサウルに引き渡す」ということでした。


ケイラの人々はなんて薄情で恩知らずな人々だろうと驚きます。ダビデたちが主に従って勇気を出して戦いにきてくれて町を守ってくれたのに、そのダビデたちをサウルに引き渡すのですから。

しかし、よく考えると、ケイラの人々は、前の章のノブの町で、アヒメレクと他の祭司たちが全員殺され町が破壊された事件を耳にしていて「自分達が滅びるわけにはいかない」と恐れていたのでは?と語られました。


神様はそのようなことをダビデに教えてくださり、ダビデと部下600人はケイラの町を出てゆくのです。彼らがケイラの町で拠点を持つことを神様は望まれず、彼らは出てゆき「そここことさまよった。」(13節)とあります。

なんと不安な道のりでしょうか。とここを読むと思います。しかし、14節です。

「サウルは毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」

感動します。


主は荒野へ、彼らを導かれました。


来る日も来る日も、彼らは荒野をさまよいました。

ジフの荒野の山地、ホレシュ。

こんな↑荒野に600人もの人々がうろうろしていたら、すぐに見つかり捕らえられてもおかしくないように思います。しかし、神様が彼らをサウルの手に渡さなかった。


つまり、私たちにとって「荒野」は、不安で、辛い、先の見えない悩ましい場所であっても、神様がそこに導かれるときにそこは、完全なる「神の要塞」であるというのです。

この言葉は本当に大きな真実、励ましではないでしょうか。


私たちは、「荒野」に、何もないが故に、ひたすら泣き、孤独と戦い、不安、恐怖を感じます。しかし、主がそこに導かれたならば、他のどこでもないそここそが神の守りの場所「神の要塞」なのです。


もしダビデのことをケイラの人々が守ってくれたならば、ダビデはケイラの人々に感謝し、称賛したであろう。しかし、ダビデは神に逃げ、そして神がダビデを守ってくださったが故にダビデは神を褒め称えたのです・・・・。


❸神が仕切りの岩山となってくださる。

16節でヨナタンがダビデに会いにきて、「神によってダビデを力づけた。」とあります。

孤独で辛い先の見えない中にあって、信仰の友が危険を冒しても会いにきてくれて励ましてくれる。神様がこのような友を通しても私たちの信仰を励ましてくださることを覚えます。


ヨナタンに励まされ、もう一度立ち直ろうという気持ちになったダビデについて、

同じユダ部族のジフ人たちが、サウルに告げ口をしてダビデを貶めようとします。彼らもまたそのようにして自分たちの町を守ろうとしたのです。


ダビデはマオンの荒野に逃げていました。写真で見ると、見つけ捕らえるのに難しいようには思えないような地形です。このような岩山をダビデたちは移動していたのです。そしてもう少しで捕まると思えるような間一髪というところで、サウルの元に使者がくるのです。

「急いできてください。ペリシテ人がこの国に襲いかかってきました。」


神様のタイミングです。ダビデは捕まらず、神が働いて、サウルたちを引き離してくださったのです。

常識で見たら、「ああ、もうだめだ」というところで、神様の御手がさっと入る。

私たちは、このような神様の御手の中にあること。神様はこのようなことを通してご自身の栄光を顕わしてくださるということを覚えました。


祝祷で祈られた言葉にも励まされました。私たちの人生にはさまざまな起伏があります。しかし、どんな時にあっても神が共にいてくださり、その神に助けを求め、御心を求めるときに、神様は必ず祈りに答え、導き、助け、私たちを通してご自身の栄光を表してくださることを信じて歩むことができますように。そのような祈りでありました。


ダビデがこのような時に主に謳った詩篇を読むとさらに味わい深いです。詩篇54篇

「見よ。神は私を助ける方。主は命を支える方。・・・・」


「ああ。イスラエルの救いがシオンから来るように。神が民を元通りにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。 」  詩篇53篇6節   聖書




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