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「神の脱出プラン」*第一サムエル記29章

更新日:6月29日


色とりどりの鮮やかな花々。太陽の光を受けてそれぞれの場所でそれぞれの花らしく美しく咲いています。主を褒め讃えます。


今日は父の日ということで、みんなでみことばカードにメッセージを添え、寄木細工のペンをプレゼントしました。みなさん喜んでくださいましたが、写真を撮り忘れてしまい、残っていたカードだけの写真です。CSのメッセージは先週の礼拝説教サウルが霊媒師のところへ行きサムエルを呼び出してもらうというところから。サウルが変装してゆくところで布を被ったのですが、霊媒師の女も出てくるので、被ったままお話したら「なんかラプンツエルの怖い方のお母さんみたい」だったということで、怖い!?写真も・・。連想ゲームをしたり元気よく賛美。楽しいCSでした。午後はクワガタやカブトムシの折り紙タイム。折り紙女王?の高校生と一緒に苦戦しての小学新一年生共同作品、どうかご覧ください😆


礼拝は「敵軍のダビデ」と題して第一サムエル記29章よりメッセージ。

身から出た錆と言われても仕方ないような、自分の選択・行動によって引き起こしてしまったピンチをどのようにダビデは切り抜けたのか。


❶神の憐れみによって

ダビデはペリシテ人の地に入ってから、アキシュの信頼を得るために偽りに偽りを重ねて努力し、見事にアキシュ王の信頼を勝ち得ました。ところがそのせいで、今度は全イスラエルと全ペリシテの戦いにアキシュ王の護衛として駆り出されることになるのです。神によって「イスラエルの王となる」と約束されているのに、もしもペリシテ人と与してそのイスラエルと戦うということがあれば、これはダビデの人生に大きな汚点となり、その名に傷がつくのは目に見えています。これは大変なピンチです。

ダビデはアキシュと共にいながら、内心どうしよう・・・と悩んでいたのではないでしょうか。


ペリシテ人全軍はアフェクに結集しました。ペリシテ軍は5大都市国家の連合軍であったと語られました。アキシュ王はその一人でガテの王であったそうです。


まったくダビデを疑うこともなく、戦いに連れてきたアキシュに向かって、他の4人の首長たちは、抗議してきました。彼らにとってみたら、ダビデの存在はあり得ないものでした。初めは、「ナーンだ、あのヘブル人たちは。。」という思いから、「あれ?あの男は、ひょっとして我らの巨人戦士ゴリヤテを倒したダビデではないか!」「あの、忘れることのできないダビデか?」「あの男のせいで、今までのイスラエルの戦いでも何度も痛い思いをしてきたではないか!」「アキシュは一体どうしてしまったのだ!」

彼らの声が聞こえてくるようです。


しかしすっかりこの1年4ヶ月。ダビデと関係を築いてきたアキシュは、「ダビデは裏切るかもしれないからこの戦いから外せ!」と言われても、ダビデには何の落ち度も見つからないのだ、とダビデを庇ってくれるのです。(敵軍のペリシテ人だけれど、アキシュって素直で騙されやすい?いい人だったのかな・・・と思ってしまいます・・)


この時のダビデをどう考えたらいいのか。主に選ばれた人であるがこの時期はダビデにとって停滞期であったのだ、と捉える学者も多いそうです。

神に罪を犯さないように気をつけながらも、しかし生き延びてゆくために偽りを持って敵の王から信頼を勝ち取り、結果、逃げ場がなくなってしまった。

人間の知恵と力の限界を感じます。

しかし、そのダビデを神様が不思議な方法で救われたことに驚きを覚えます。

首長たちに懐疑心を起こさせ、彼らの言葉を通してダビデを助けてくださったのです。

ダビデはアキシュから疑われることもなく、信頼を失わずにこのピンチを切り抜けることができました。


「神の脱出プラン」という言葉が語られました。「さあ、これが道だ」と神の大きな憐れみによって、ダビデはこの危機から脱出することができたのです。

ローマ書のパウロのみことばが開かれました。

「わたしは憐れもうと思うものを憐れみ、いつくしもうと思うものをいつくしむ。」と。

全き神の主権による助け。人に求められ、人に助けを請われたから動かれるのではなく、神様ご自身のご意志をお持ちで、神様が決められたように、憐れみ、助け、いつくしまれる。

そのことを教えられました。

ダビデを憐れみ、助けられた主が、今を生かされる私をも助け、憐れんでくださることに感謝を覚えます。


❷神の憐れみにすがりながら歩みましょう


他のペリシテ人4人の首長たちから言われて、アキシュはダビデに申し訳なさそうに「穏やかに帰ってくれ。」と頼みます。

その時に、アキシュは唯一の神など信じていないのに、「主は生きておられる。」と主の名をだして話し始めるのです。

これは、ダビデにとって、大きな励ましになったのではと語られました。この状況の中でも、「ああ神が共にいてくださったのだ」とダビデは思ったのではないか、と。(6節)


私たちは人生に起こってくるさまざまなことを「たまたま」とか「ラッキー」という言葉で片付けてしまうことがあります。しかし、そこに神の働きがあるということ。最悪な状況を免れる時も、そこに確かに神の助けがあるということを、知らなければなりません。


「ダビデは内心、『ああ。良かったー・・・・・。』と思っていたのでは?」と語られました。本当にそうだなあと思いました。

自分で何か努力したのでなく、神様の守りの中で起こったこと。

神様のお優しい憐れみを心の芯までしみじみと感じたのではないでしょうか。

神様の憐れみという時に「放蕩息子」を思うのだと語られました・・・。


レンブラントの絵を見ながら、貴重な遺産を奪うように持って出て、好き放題、愚かな選択・行動をした結果、身も心もボロボロに汚くなって帰ってきた放蕩息子の話が語られました。こんな勝手な愚かな息子の帰宅を、父はずっと待ち続け、見つけると遠くから走り寄り、そして父の方から近づき「汚いな」「臭いな」などというどころか、そのままの彼を抱きしめ、口づけし、受け入れてくれた・・・。長男の怒りや、批判を一気にその身に引き受け、自分勝手の挙句に全てを失ってただただ悔い改める弟の惨めな姿をすっぽりと受けとめてくれたのです。


私たちも、否定され、傷つき、ボロボロになり、痛み、限界を感じ、悩み、自分の罪深さに嘆き、真っ暗な中で苦しむ哀れな存在です。しかし、そのままの姿でイエス様の元に行くときに、「子よ。汝の罪は赦されたり」とイエス様は宣言してくださる。受け入れてくださる。神様の大きな憐れみにすがる時に、そこに初めてこの世界のどこからも得られない真の平安をいただくことができるのです。


自分で抜け出すことのできなくなったダビデに大きな憐れみをかけて助け出された神様が今週もご一緒くださる。神様の憐れみにすがって生かされていきたいです。


「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主の憐れみは尽きないからだ。哀歌3章22節 」聖書


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