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「本物、偽物」祈祷会(2月16日)*アモス書3章

更新日:6月29日


アモス書3章は北イスラエル王国に対しての裁きが2章の後半に続いて語られていきます。

❶北イスラエル王国の民族としての責任(1〜7節)

2節において、「わたしは、地の全ての種族の中から、あなた方だけを選び出した。それゆえ、あなたがたの全ての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。」と書かれています。


イスラエル民族は立候補して、神の民となったのでなく、神様に選ばれたのだということ。

彼らの先祖アブラハムは、メソポタミア人であり、メソポタミア文明ウル第三王朝の発展した都市に住んでいました。その彼が、ど田舎のカナンの地に導かれ、「この地を与える。」「子孫は海辺の星のようになる」と約束を受け、それはイスラエルの民の中に実現、成就していったのです。


それなのに、イスラエルの民は咎を犯し続けました。神に選ばれ、守られているのに神への応答がない。「選ばれる」ということは、選ばれた者としての責任が課せられるということなのです。彼らには「選民」としての意識はあったのに、責任を果たしていなかった。

神様はその彼らに、裁きを通して自覚を与えようとされていることを知るのです。


ヨハネ1章12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。

私たちもまた、神の子として選ばれ、神様の栄光を現すために、救われた選ばれし民です。

第一コリント10章31節には、「あなたがたは食べるのにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。

私たちが、神の子として証になっているか、キリストの香りを放つものとされているのか問われている事を示されます。


❷預言者の責任(3〜8節)

北イスラエル王国の人々は、アモスが預言をしていったときに、「南王国ユダの一介の農夫に何が分かるんだ!」とアモスを蔑み、軽視しました。

ここで神の人とは、どんな人なのかを考えさせられます。教会は神の人として牧師を迎えます。では、その牧師が「神の人」かどうかを見極めるとはどう言う事なのでしょうか。

招聘に当たってその牧師が神学校を卒業しているか否か、あるいは教団において按手を受けたかなど、そのような事を私たちは見ます。しかし、神の人とは、神がお立てになったか、神がお召しになっているかが重要であることを思うのです。


パウロは、迫害者から回心しましたが、初めなかなか教会は彼を受け入れることができませんでした。異邦人への伝道者として神が召された人だったのにです。

アモスも、同じです。北イスラエルの人々から受け入れられなかった。しかし、彼はそのような人々に「主は私と一緒に歩いて下さっている。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」(アモス書3章8節)と弁明してゆくのです。


この言葉を通して、「預言者とは、神の言葉を預かる人」であることが分かります。本物の預言者とは、人々が聞きやすく、受け入れやすい言葉を語る人ではなく、たとえ人々から反発を受けようとも、神から語れと言われた言葉を恐れず大胆にまっすぐ語る人のことです。


このアモスの時代も、預言者の学校があり、各地で預言活動が行われ、多くの預言者がいたそうです。その中には本物もいれば偽物もいたというのです。

それでは「偽の預言者」とはどんな預言者でしょうか。

それは、神から言葉を預かっても、人々に受け入れられる言葉に変えてしまい、真実な言葉を語ろうとしない預言者でした。聖書を読んでいくとそのような預言者を見ます。

彼らは、神の御心に反発している王や民に、「そのままで大丈夫ですよ。」「安心しなさい。」「祝福があります。」と語っていったのです。

一方、本物の預言者は、「あなたがたはこのままならば神の裁きが起こる」と恐れずに彼らに語っていきました。


現代においても、会衆が求める説教を語るならば、その牧師は本物の預言者ということはできません。

「愛と慰めに満ち、笑いと安心に満ちた楽しい説教を」と言われ、聴衆が受け入れてくれるようにみことばを用いて語ろうとするならば、それは神の望まれる真の説教者ではないのです。


人々が何を求め望んでいるかではない。神がこの人々に、この教会の民に語れと言われる言葉をまっすぐに語る者。反発し、耳を閉ざす人がいたとしても、「主はこう言われます。」と語っていく人が真の説教者なのです。


愛であり、義である神の語られるところから、的を外してゆくならば、それは神の御心からそれることとなるのです。


神がアモス・イザヤ・エレミヤ・・と多くの預言者を通して、その当時の人々になぜ語りかけたのか。それは彼らを滅ぼしたいからではなく、反発している人々が唯一の真の神に帰り、悔い改めることを願っておられたからです。

 私たちもまた神の裁きに耳を閉ざすなら、自分のイメージする神に仕え、自分にとって都合のいい神様をつくりあげていくならば、それは神の御心をそこなってしまうということを知らなければなりません。


この神の主権を認め、神の言葉を聞いた者としての責任を果たしてゆくこと。

神の前に膝まずき、「キリエ・エレイソン」=主よ、私を憐れみたまえと祈り求めて行く者とされたいです。


「聞いてください。主よ。私をあわれんでください 主よ。私の助けとなってください。

詩篇 30篇10節  」聖書



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