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「残りの民」*ローマ書9章25〜29節


近所の方にいただいたオジギソウが立派に育ちましたが、とうとう綺麗な花が咲きました❣️秋のバラも次々と咲き、そして「残りの朝顔」もまだまだ頑張って咲いています。


今日のメッセージはローマ書9章25〜29節より「神の約束」と題して語られました。


❶神の民でなかった者が神の民とされることの幸い


パウロは異邦人伝道の使命を全うするべく、日々遣わされてゆく中で、同時に同胞ユダヤ人への宣教も諦めず、迫害にあっても止めることがありませんでした。それは、同胞ユダヤ人が救われるという確信ゆえであり、その確信は神がその約束をなしてくださるというところにしっかりと立っていたからです。


祈祷会で今パウロの伝道旅行について順に学んでいますが、パウロの行く先々において、ユダヤ人が追いかけてきて、迫害し台無しにしてゆく姿を見たりしています。

その執拗なじゃまにも、神様の「恐れるな。語り続けよ」という言葉をいただきながらみことばを宣べ伝え続けるパウロの姿を思います。


さて、パウロはここでまず、ホセア書を引用しながら、神様の愛を説きました。

ホセア書は旧約の小預言書ですが、ここで神様は、「神とイスラエルの民の関係」を

「ホセアと妻の関係」と通して示そうとされました。


ホセアは神様に、自分を裏切るであろう女性と結婚しなさいと言われます。そして子どもも与えられますが、この女性はすぐにホセアを裏切り他の男性のところに出てゆき、その生活は転落、奴隷になってしまいました。神様は再びホセアに語り、この女性を奴隷から解放し愛するようにと言われるのです。ホセアは彼女の身分を買い戻し自由にして、もう一度彼女と結婚生活をするようになります。


神様はイスラエルの民を選び、愛し、祝福してくださいました。しかし、イスラエルの民の心は移り気で、他の偶像へと走り、神を捨て神の忌み嫌われる生活をするようになります。そしてその果てに、他国に侵略され奴隷の身分になってしまいました。憐み深い神は、そのイスラエルの民を一方的な深い愛によって買い戻してくださったのでした。


ルカの15章にはイエス様が話されたたとえ話「放蕩息子」が書かれています。

父親に深く愛されていたのに、この息子はその父の家を出て、放蕩三昧をし、そして財産を湯水のように使い果たしました。その後、飢饉にあい、何もかも失った息子は父の使用人になる覚悟で父の家に向かいます。「お父さん。私は罪ある者です。あなたの息子と呼ばれる資格はない。どうか雇い人にしてください。」と言おうと。。。しかし、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口付けするのです。


愚かな裏切り者のちりに等しい私たち人間への深い神様の愛。ほとばしるアガペーの愛です。


姦淫の現場で捕らえられた女性の話も出てきました。多くの人々に裁かれ石打ちの刑に処せられようとしていた女性。(ヨハネ8章)

彼女に対してイエス様は厳しく叱られたのでもない。「2度と罪を犯してはならない。」と

深い憐みの心を持って言われたのでした。この女性が永遠の救いを受け、永遠のいのちを持つことができるように。


聖書の「憐み」とは「愛」と連結していると語られました。

可哀想だという憐みの心ではありません。自分を犠牲にしても良いという神様だけしか持つことのできないアガペーの愛、憐みの心なのです。


この深い憐みの心、愛が今日私に向けられているということを改めて深く受け止めたいです。


❷神によって残された者

次にパウロはイザヤ書を引用して語りました。

「たとえイスラエルの子らが、海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。」

「もしも万軍の主が私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」と。


ソドムとゴモラは堕落した罪の町であり、神から裁きを受け、滅ぼされました。今はなく、地上に存在したのに、見せしめのようにして、全て消された、そのような町です。


そして神様の約束は、少数の「残りの民」を通して、救いの歴史を推し進めて行かれるのだと語られました。神様は全ての人を愛されるが、たった一握りの人々を通してみわざがなされていくのだと。



左は、エジプトを出た民が、カナンの地へ偵察に行った時の様子です。

カナンの地は麗しい地でした。偵察に遣わされた12人は喜びます。しかしその喜びも束の間です。なぜなら、その地に住む人々が自分たちよりも体が大きく強い民族であることが分かったからです。12人中2人、ヨシュアとカレブは勇敢に言います。「これは麗しい地だ!必ず私たちはこの地を得ることができる!」しかし、10人は「無理!とても我々では太刀打ちできない」と言って民の心を挫きます。


イスラエルの民は皆怖気付いてこのために、カナンの地に入ることができず、38年もの間旅を続けることになります。やがて、38年後、ヨシュアと共にカナンの地へ入ろうとした時に、イスラエルの人々は、主が言われる通りに、エリコの町を回っただけで、その堅固な城壁がもろともせずに崩れ落ちるのです。そこを皮切りにイスラエルの民はカナンの地を約束の地として頂いて行ったのでした。

そしてこの38年間。反対した人々は全員死に、主の言葉に従ったヨシュアとカレブだけが残され、勝利を見ることができたのでした。(民数記13章〜)


ノアもまた同じです。人生の大半を船作りに費やした。神様から言われてその命令通りに箱舟を作った。嘲笑った人々は全て死に絶え、ノアとその家族8名だけがこの地上に残されたのでした。(創世記6章)


神様が「残された人」を通して、神のみわざを行おうとされること。

数が多いか少ないかは神様にとっては問題ではない。私たちの中に神様が与えてくださるビジョンがあるのか。そしてそのような人々を通して神のみわざが起こされ、動かされていくこと。


預言者エリヤの話が語られました。(第一列王記17章〜19章)



エリヤはバアルの偶像に仕える大勢の人々に対して一人で対峙し、主が大いなる勝利をもたらされた後で、王の妻イゼベルがエリヤの命を狙っていることを知ります。

彼は恐れて立ち、逃げます。そして疲れ果て、もう自分の命をとってくださいと神様に祈流のです。

そんな疲れ切った預言者エリヤに神様は食物を与え、休息を与え、そして細き声を持って言われるのです。「わたしは、イスラエルの中に7千人を残している。これらの者は皆、バアルに膝をかがめず、バアルに口付けしなかったものである。」と。神様がこのように人々を確保され、エリヤはそれに励まされて、出てゆくのです。


この世界で、この日本で、99.8パーセントが本当の神を知らず、神を崇めないそのような中で、なぜ救われたのか?たまたまではない。偶然ではない。神が私を「残りの民」として選ばれ、使命を与え、生かしてくださっているということ。

もう一度覚えつつ、神の言葉は必ず成就するということを信じて今週も出てゆきたいと願わされたことでした。


「あなたがたは以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。 第二ペテロ2章10節  聖書」


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