収穫の秋ですね。田んぼは稲刈りも終盤。かつては共に恵みある保育者として働いていた友人からの写真。今は千葉の広大な土地でご夫婦で農家を営んでいます。農薬を使わずに作物を育てる中で、「神様は農薬や肥料を使わなくても植物が育つようにちゃんと設計しておられること。そのために、肉眼では見えない微生物が生き!もう宇宙ですよ!土の中に宇宙がある!」「自然は第二の聖書とも聞いたことがある・・」神様のみわざを讃えるその言葉に、恵みと驚きを持って、私ももう一度創造主であられる神様に思いを馳せるひととき。
「自然は第二の聖書」とはガリレオ・ガリレイの言葉だそうです。
二宮も。毎日広い広い海を見て、空を見て、山を見て、そこに住む生物・植物に触れ、本当に豊かな場所ですが、この言葉の通りですね。自然を見上げるときに神を思います。
みことばは「成長する教会」と題して、エペソ書からのメッセージ。
「教会」について語るときに、エペソ書という書物がパウロによって非常に丁寧に「教会」について書き記された手紙であることを覚えつつ、今日の箇所が開かれました。
❶私たち一人一人は成長する必要がある。
私たちが霊的訓練を受けるのはとても大切なことであり、成熟したキリスト者へ変えられてゆくこと、成長することが、神様によって求められていること。
みことばの乳を慕い求めなさいというみことばがあります。しかし、いつまでも私たちが乳や柔らかい離乳食のような食べ物ばかりを食べていては必要な栄養はおろか、成長が与えられないこと。つまり、私たちの体が成長するに従って固い食物を食べ、強められていくように、霊にあってもしっかりとした食生活が必要であること。
教会の成長と共に、一人一人の成長、自分自身の成長が非常に大切であることをもう一度示されました。信仰生活は、慣れではなく、それぞれ神様に与えられた達すべき点にたどりつくまで、「あなたは死に至るまで忠実であれ」と語られた神様の御声に聞き従って常に教えられ、気付かされ、悔い改め、みことばをよく読み、よく神様とお話ししていただいて更に更に成長させられることを主は求めておられるのです。
❷キリストによって愛の内に建てられる
教会は誰が建てるのでしょうか?誰が建てたのでしょうか?
教会の頭(かしら)はイエス・キリストです。
4章11節においてこのように書かれています。
「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師、また教師としてお立てになりました。」
ここで、誰が人を牧師に、あるいは伝道者に召されるのか。主語があることに気づくのです。その人の思いや願いではない。「キリストご自身が」「召した者を」「教会のために遣わす」のです。
そしてそれはマタイ16章18節にあるように、
「告白」=「あなたは生ける神の子キリストです。」という、この告白の上に教会を建てると言われたのです。この告白岩の上に、わたしの教会を建てると主が言われた。
それは、ただ単に人が集まるのではなく、中心にキリストが、かしらである主がおられる集まりであること。
教会は物事が人の思いで決められていくのではなく、神様が何を求めておられるのかを共に祈り求めてゆく場所です。
教会はキリストの身体であり、一人一人は各器官で、それぞれ力量や働きに違いがあり、様々な賜物を持っている一人一人がキリストにあって結び合わされているということ。
結び合わされるという言葉は、英語の聖書を見てみると、結び= joint と、合わされる=knit という言葉が使われています。
人体には200本の骨があり、それらは関節や筋によって繋がっていること。そして神経やリンパ腺、血液が網の目のようにあり、教会もまるで、そのようにお互いの違いを認めながら、主によって結び、組み合わされているということを見ることができるのだと学びました。
このキリストにあって結び合わされる身体は、自分に利益を与えてくれる人がいるからとか、自分が活躍できるからとか、そのようなちっぽけな理由で結ばれるのではなく、一人一人がしっかりとイエス様と結び合わされる時に、この御身体である教会が、本当の意味でダイナミックな主のみわざをなしていただける恵みに預かるということ。。
人の力では解決されないことも、キリストとの親しく深い交わり、またキリストにある信徒の交わりの中で解決へ導かれていくということ。
よい教会とは、キリストにあって成長する教会であり、主を見上げ、それぞれが主のために賜物やビジョンを用いてささげ、しっかりと結び合わされる群れであることをもう一度教えられました。
「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより、成長して、愛のうちに建てられることになります。 エペソ4章16節 聖書 」
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