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「教会」とは何か?*使徒2章40〜42節より


日曜日は、宗教法人となったことを記念して「教会について」考える礼拝となりました。


2000年前に教会が生まれてから、今に至るまで「使徒」の時代は続いていると言われます。しかし教会というものは一体何なのか、初代教会の姿に学ぶことがなければ、私たちは自分達の思いを達成するために、本来あるべき姿から離れていってしまうことがあることに気付かされます。

「教会の4本柱」と題して使徒2章よりメッセージが語られました。


❶教会は「キリストを受け入れた人々の集まり」であるということ

「エクレシア」という言葉が語られました。聖書で「教会」と訳されている言葉は「エクレシア」であり、元々は「ある目的のために集められた人々の集団」という意味だそうです。つまり、教会は「キリストを神と崇めるという目的を持った人々が集まる」場所です。

集まりの中心には「キリスト」がおられるのです。


 教会の中で、時々「人を集める」ということに心が向いてしまう事があるのだと語られました。

人を多く集めようとするとイエス様を前面に出せなくなります。もしイエス様が前面に出されるなら、人間の罪について取り扱われることになり、「イエス様以外のもの」「人々の関心を引くようなもの」を前面に出していこうとするようになります。

そしてその次に、人を集められたらその人々にまるで忖度してゆくように、人々が気分を害さないようにと工夫をすることに心を持って行かれてしまう。そしてそのような流れの中でイエス様を出すことを極力控えめにする。

これでは、「キリストが中心の集まり」とは言えないのだと語られました。


罪人を贖ってくださったキリスト。教会の中心はまさに「キリスト」であり、この「エクレシア」である教会が、誰を見、誰を拝しているのか。それが非常に重要なのだと、そこから外れてはいけないのだと語られました。


❷初代教会の人々が熱心に取り組んだこと。


使徒2章42節には、このようにあります。

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりをもち、パンを裂き、祈りをしていた。」

初代教会の人々はこの4つを「いつも」していたとありますが、この「いつも」という言葉は「固く」とか「ひたすら」といったような彼らの熱心さを表している言葉なのだと語られました。


①使徒たちの教えを守ること

 初代のキリスト者たちは、使徒たちを通して語られたイエス様の教え、礼拝を、熱心さを持ってきき、それをおこなっていました。イエス様が願われたように生きたい、というその思いひとつでした。40節には「この曲がった時代から救われなさい」とペテロが語っています。

神様がみことばを通して私に何を願われているのか。何について悔い改めを求めておられるのか。熱心に聞き、そのみことばに生きようとした彼らの姿を思います。


②交わりをもつということ

 交わりを表す「コイノニア」という言葉の元々の意味は「楽しい時間を過ごす」ということでなく「共有する」という意味があるのだそうです。43節以降に彼らが持ち物を共有していたことが書かれていますが、現代の私たちにとっては、それはお互いの祈祷課題を共有することであったりするかもしれません。薄っぺらい挨拶をするだけのお互いでなく、教会の一人ひとりの祈りの課題を覚え、神様に執りなしてゆく愛の関係「コイノニア」交わりが与えられていくことです。


③パンを裂くこと

 聖餐式のことですが、キリストが私のために身体を裂き御血を流して死んでくださった、その深い愛と犠牲をいつも心に思い、その信仰の原点に立ちかえる時間を持っていたということです。

誰も、キリストの前に誇る者はいない、ということ。熱心に聖餐式に預かっていくことの大切さを思います。


④祈ること。

 この世で、教会にとっても個人にとっても「祈る」ということは命です。力です。聖徒たちは心を合わせて祈り神様の御前に一つとなっていたのです。

「祈っていた」と使徒の働きには至る所に「祈り」という言葉がたくさん出てきます。


韓国のサミル教会という大きなキリスト教会の先生が著された「しかし倒れない」という本の中の話が紹介されました。

 二人の友人同士の牧師が出てきました。一人は純福音教会の牧師「チョーヨンギ」先生。

もう一人は長老教会の「キム・ジャーン」先生。

チョー先生の教会は10万人の大教会。一方キム先生の教会は3千人。

チョー先生は高校も行くことができず、聖書学校を出ただけで、目が小さくてハンサムでもないけれど、キム先生は勉強を一生懸命して博士号を持っており、顔はアランドロン?みたいな目でとってもハンサムだったそうなのです。


あるとき、この人数の違いに疑問や不満を持ったキム先生がチョー先生に聞いたそうです。

「僕は全ての面であなたに優っているのに、どうしてあなたの教会は10万人で私の教会は3000人なんだろう。」するとチョー先生が聞かれました。

「君は1日のうちで何時間祈るの?」「30分は祈るよ」するとチョー先生が答えました。「僕は3時間祈っているよ。」

二人の違いはそれだけだったというのです。


「祈り」は私を変え、教会を変えるということ。祈りこそが一番大事なのだと。

だから、私たちは、一度全てのことをやめて「祈り」に専念したら良いのだと。

祈ったら何が起こるか。それは聖書に如実に書かれているではないかと語られました。


使徒時代。初代教会のキリスト者たちが、この4本柱に忠実に立って主に仕え、しっかりと繋がり生きていたように、今を生かされる私たちも、キリストを見上げ、キリストのいのちにしっかりと立ち、キリストの望まれるように歩みたい。「祈りとみことば」今週も大切にしてゆきたいと思わされたことでした。


「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」ピリピ1章21節 聖書



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