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「憐れみに溢れる主」*第一サムエル記27章

更新日:6月9日


紫陽花の6月。


礼拝は「仮の姿」と題して第一サムエル記27章より。

神様に「委ねる」ことは、言葉で言うより簡単なことでなく、私たちは「不安」を持つ時に、自分の考えで先に動いてしまう弱さがあります。神様が常に共にいてくださった、守ってきてくださったのに「不安」ゆえに、自分の考えによって行動に移ってしまうダビデの姿をこの章で見ます。


❶神の召しを考える。

サウルから「帰ってきなさい。」と言われたダビデでした。でも、これまでのことから、サウルの元に行けば、再び命を狙われ、あるいは囚われるかもしれないとダビデは判断し、自分の道を歩んでゆく決断をします。


しかし、ダビデの心に「不安」の種が蒔かれ、それがいよいよ大きくなり、言葉となって出て来ます。

1節にあります。「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、今にサウルの手によって、滅ぼされるだろう、ペリシテ人の地に逃れるより他に道はない。そうすれば、サウルはイスラエルの全領土内で、私を捜すのを諦め、こうして私は彼の手から逃れられる。』」

からし種の話が出ました。



イスラエルのお土産のからし種がありましたので、↑載せて見ます。

「ちいろば牧師」の榎本保郎牧師が、書物の中で書かれていた一節をメッセージを聞きながら思い出しました。榎本先生が初めてからし種を見せてもらった時に、手にのせてもらったからし種が、よく見えず、やっと見えて「え!こんな小さいんですか!」と感動して大声で叫んだら、その種が先生の息で飛んでいってしまった・・・からし種は本当にそんなに小さいんです。・・・・そんなお話でした。


ところが、この小さな小さなからし種は成長すると、枝に鳥の巣をも作るほどに成長すると言うのですから驚きます。(マタイ13章31〜32節)


イエス様が話されたみことばの種のたとえも、良い土に落ちた種は100倍、60倍、30倍・・の実を結ぶと言われました。みことばの種が心に深く植え付けられると、それは大きく成長し、豊かに実を結ぶように、実は「不安」の種も同じように、心の中で成長し、大きくなるとそれが言葉、行動となって出てくるのだと語られました。


ダビデは、「不安」だった。そして、人の目から見たらなかなか賢く大胆な行動に出るのです。「敵の敵は味方」という言葉が語られましたが、今では命を狙うサウルは敵でありその敵であるペリシテ人アキシュ王を味方として、頼っていくのです。飛び込んでゆくのです。


ガテに戻ったダビデ。ここは、サウルから逃れてきた時に、アキシュ王の臣下に見つけられ、気がふれた演技をして難を逃れた、そんな場所でした。そこに舞い戻ったダビデは

前回は一人でしたが、今回は600人の部隊を連れてやってきたのです。


アキシュにとっても、ダビデを敵とせず、味方に取り込んで共存し、自分たちの栄華を得よう。そんな目論見があったでしょう。アキシュはダビデにツィケラグの地を与えました。


ダビデはなかなかの知恵者で、決して愚かではなく、神が共にいるがゆえに知恵に溢れ、それによって、ある意味、サウルから命を襲われる恐れから解放されたのです。

しかし、信仰者としての姿はどこにあるのか。そう問われた時に、ダビデはこれまでずっと神様に守られてきたのに、「あなたは王になる」と神に未来を保障されているということは王になるまで死なないということであるのに、神様の約束の元に自らを置くことができなかった弱い姿を見せられるのです。


イスラエルはダビデに与えられた土地でした。ですから、ダビデはイスラエルを離れるべきではなかった。「主の召し」について、それを受け止めそこに留まるべきであったのでした。


「召し」というと、特別の献身者への言葉のように思いますが、そうではなく、一人一人が置かれている場が、主が召された場所であるということも語られました。

自分が選んだ職場。自分が選んだ家庭。自分が選んだ土地、教会・・。と自分が選んだように私たちは考えるけれど、全知全能の主が、深いご配慮のうちに私たちを召し、私たちのために選んでくださったということ。与えられている能力や、機会も全て主からくるのだということ。そして神の召しは決して無意味に与えられているのではない。だから、私をここに置いてくださった主に目をあげ、「召し」として受け入れてゆくことが大切なのだと語られました。


❷神の愛は変わることがない。


さて、アキシュがダビデに与えた土地はツィケラグという場所でした。そこは地図を見ますと、ガテから30kmほど離れたところです。建前では王の都に住むなど恐れ多い(5節)と言いましたが、監視の対象にされることを避けるために程よく離れた土地としては、ここは恰好の場所でした。


またこの土地はヨシュアの時代、元々イスラエルの土地であった所をペリシテ人が占領した場所でもあり、ダビデはここを拠点として異邦人・アマレク人を攻めていきました。「神様が燃える御怒りを持ってアマレクを罰する」と言われた言葉をダビデは知っていたのであろう、だから神がここに置かれたのは神の土地の回復のため、とダビデは進んでいったのではと語られました。


ただ、そのことをアキシュに報告することはできず、ダビデは嘘を言い、はぐらかしては、その場を凌いでいくのです。

ガラテヤ書6章7節に「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」とあります。

自分で種を蒔けば刈り取らねばならない。ダビデが勝手に自分の考えで動いてしまったことにより危険を招くような状態を引き起こしてしまうのに、神様の不思議な助けがそこにあることを私たちは後の章で見せられます。


神様はなぜこんなにもダビデに良くしてくださるのか。ダビデが神に選ばれた人であったからです。ダビデが自分で「私が王になる!」と立候補したのではない。

サムエルから油注がれた場面から語られ、胸があつくなりました。

サムエルがダビデの父エッサイの元を訪れた時、そこに父が呼んだのは上の兄たち七人のみでした。(第一サムエル記16章)サムエルが長兄を見た時、「確かに主の前で油を注がれる者だ」と思ったのです。しかし、神様は言われました。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と。

そうやって、次の兄も違う。次も違う・・7人の兄たちは皆違う。おかしいな、あなたの息子はこれで全部ですか?そう聞くサムエルに、父のエッサイが言うのです。「まだ末の子が残っていますが、あれは今羊の番をしています。」と。

つまり、人の目から見たら、味噌っ子で、価値を見出せないような存在であった。しかし神様は違った。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」そう言われたのです。


それならば、神に選ばれたならば、何をしてもいいか。と言うとそれは間違いで、神に従うことが求められていると言うこと。

ダビデのように、私たちもまた神様に愛され、選ばれ、導かれているのに、それなのに、神に喜ばれない罪を犯し、あるいは罪を犯しうるところに自らを置いてしまう弱さがあり、不安や痛み・不利益を得れば神よりも自分の考えに立ち、過ちを犯してしまう哀れな存在なのです。


そしてさらに「自分で蒔いた種は刈り取れ!」と言われても、できない哀れな存在に過ぎないことを思うのです。そんな弱い者たちを神は選びの器として見放されず、何度も愚かなことをしてしまう、気づきのない者なのに、神様の恵みは注がれ続けているのです。惜しむことなく、豊かに憐れみを与えてくださるのです。

それでは、どうせ助けてくださるのだから、自分のやりたい放題をして、そしてまた謝り、神様に助けを求めれば良い。そのように考えることは神様を侮ることであると聖書は警告しています。


しかし愚かなことを繰り返す弱い私たちを、神様は深く愛し、成長させ、大きな愛の御手で憐れんでくださる温かい父であることを覚えたいと思います。そしてだからこそ、その大きな主の憐れみと期待に、愛に応える者に成長したいと願うのです。


「主は情け深く、正しい。誠に、私たちの神は憐れみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。」詩篇116篇5節

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