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「教えられやすい心」✴︎ルカ11章27〜28節

更新日:1月24日



ルカ書の講解が続きます。前の週はイエス様のなされる御業に対して言いがかりをつけてきた人々の姿がありました。その一連の様子を見ていたある女性のことから学びます。

「神の言葉を聞き、それを守る人」と題してメッセージです。

こども日曜学校でも牧先生から、礼拝で聞くメッセージと同じ箇所からお話を聞きました。

こどもたちは毎週よくお話を聞いていて「聞く力」がグッと成長している姿に驚かされます。


❶幸いとされる聞き方


イエス様のなされること、また言われる御言葉を聞いて、この箇所に出てくる女性は、イエス様を産んだ母マリヤに対して称賛を送ります。

それが結果として、イエス様への称賛となるわけですが、これはこの頃のユダヤ社会に限定される賛辞の仕方でなく、現代でも、日本でも、見られるのだと語られました。

たとえば、現在、米国の大リーグで活躍している大谷翔平について、多くの人々が大きな称賛を彼に送りますが、同時に、どうやったらこのような偉大な人物に子どもを育てることができたのかとその賛辞や注目は彼の両親にも注がれるわけです。

両親を称えながら、最終的には、本人への賛辞へとつながっているわけです。


この女性は、悪霊を追い出すイエス様の御業を見て感動し、さらにはそのイエス様に敵対して試みようとする者たちとの対話を聞きながらイエス様の言葉に感動して、この賛辞を向けたのでした。


そのイエス様は、27節において「本当に幸いなのは」と話をされてゆくのです。

真の幸いとは、外側のことではなく、内側のことなのですよ、と言われたのです。


彼女はイエス様の行いを見て幸いだ、と言ったが、本当に幸いなのは、目で見、体験するといったことではなく、内側に起こってくる「神の御言葉を聞いてそれを守る」ということなのだと言われたのです。


25〜26節においてイエス様は「悪霊が出ていった人が自分の内側をそのまま空っぽにしていたら、悪霊はそのうち、自分よりももっと強い悪霊たちを連れてきて、その人の上には以前よりももっと悪いことが起こるのだ」と言われました。

空っぽにしていてはいけない、と言われるときに、それでは「何を」「誰を」内側に私たちはお迎えすべきなのでしょうか?


それは、まさしく「神の御言葉」であり、イエス様は「あなたの心に神の御言葉をおき、それを実践してゆくことが大切だ」と言われたのです。


英国ウエストミンスター寺院で長年牧師をしていたロイド・ジョーンズの話が語られました。

彼がある時に、礼拝で講解説教をした後に、感動したある婦人がやってきて言いました。

「牧師先生。すばらしい解き明かしをしてくれてありがとうございます。」

しかしロイド・ジョーンズはすぐさま彼女にこういったのです。

「あなたはどうしてそう思うのか?あなたは、ただ、聞いただけでしょう?実際にその御言葉に生き、体験していないのに御言葉が素晴らしいとは言えない。サタンも同じことを言う」と。

「聞くだけのものであってはいけない。御言葉を実践する人になりなさい。」という

ことなのです。


ダビデ王の謳った詩篇1篇1〜3節にはこのようにあります。

「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道にたたず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、昼も夜も その教えを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」


ダビデ王はサウルに追われ、我が子にも追われ、荒野での生活に追いやられるつらい時を通らされた人物ですが、この詩篇はおそらくそのような中で謳われた信仰の歌であろうと言われています。敵に追われる中、逃げることが、彼の大きな仕事でした。しかし荒野はすぐに小動物でも見つけられるような場所であり、血眼になって彼を捕らえようと探す兵にとっては好都合な場所だったのです。それなのに、そんな中でも、ダビデは決して捕えられなかった。敵に捕まることなく逃げ、その中で、彼は神様を賛美し、神様と対話しながら、主の言葉をいただき、教えられ、導かれた。そしてそのことの幸いを告白したのです。

悪者のはかりごとに歩まず、神の言葉に生きることの幸いを実感していたのです。


私たちは「聞いた御言葉を実践する」時に、神様の御計画が私の人生になされてゆくということを見るのです。ただ聞くだけの者でなく、御言葉を適応してゆく人生へと変えていただきたいと覚えさせられます。


御言葉の種のたとえ話が語られました。

種は「み言葉」です。その種が、どこに(どんな心に)撒かれるかで、その行く末が変わってくるのです。

道端に落ちた種は、御言葉が語られたけれども、それを受け入れようとしないために、すぐ鳥(サタン)がきて、その御言葉を持ち去ってしまう。御言葉を聴こうとせず、自分の思いや考え・経験によって判断し生きてゆくのです。

岩地やいばらの中に落ちた種もまた同じで、御言葉がせっかく撒かれても、そのほかの様々な価値観・考えで「種」は成長することがありません。

では、どうしたら幸いな聞き方ができるのか。それは「教えられる心を持って聞く」ということだと語られました。


牧師が神学校で学んでいた時に、舟喜信先生が何度も言われていた言葉を思い出すと語られました。「教えられやすい心を持ちなさい」と。

それはつまり「実を結ばせる心」であるからです。

「神様。私にあなたは何を語られますか?主よ。お語りください。僕(しもべ)は聞いております」といった少年サムエルのように。

「主よ。お言葉通りこの身になりますように」といったマリヤのように。


❷みことばを実践するということ


28節でイエス様は、「幸いなのは御言葉を聞いて、それを守る人だ」と言われました。

「守る」と訳されたこの言葉にはもともと三つの意味があるのだと語られました。

一つ目は、イエス様が生まれた晩に野宿してひつじの夜番をしていた羊飼いたちのところに使われていた「番」という言葉。

二つ目は、「守る」「保護する」という意味。

三つ目は、「掟を守る」「言いつけを守る」の意味だそうです。

イエス様のもとに、「どうしたら永遠の命を得ることができますか?」と尋ねてきた議員がいました。イエス様が彼に戒めを語られると、彼は「そのようなことは小さな頃から守っています」と答えました。その「守る」という言葉がここに使われている言葉です。


イエス様がこの28節で使われている「守る」という言葉は三つ目の言葉ではあるがその前提には一つ目の「守る」つまり、それを心に留めおくということ、があるのだと語られました。

御言葉の種が、心の土に撒かれてゆくけれども、それをさっと、取り去ろうとする鳥(悪魔)がいるから、私たちは、心の番を常にして、心を守らねばならない、ということです。

その「守る」先に「実り」がある。(ルカ8章15節)


私たちの人生にはいろんなことが起こってきます。せっかく撒かれた種も、悪霊がさっとそれをとっていってしまう。自分では守りきれない弱さを痛感するのです。

では、誰が守ってくれるのでしょうか。それは悪魔よりも強いイエス様です。

私たちがいつも、イエス様を心の真ん中にお迎えする時に、イエス様は私たちの心を守り、実り豊かな歩みをする者へと成長させてくださるのです。


ではどうやって、イエス様が私の内にすんでくださることがわかるか。

それは「神の御言葉を聞くことに集約されているのだ」と語られました。それをしっかり守ってゆくこと、そのことを通して、イエス様が住んでくださることがわかるのだと。


救いを得、神様の支配を頂いたあとも、世やサタンの影響を受け、弱さを追うときに、

クリスチャンとして出来る、出来ないというのではなく、徹底的に神様の御言葉に浸ろうとする心にイエス様はお働きくださり、神さまご自身との交わりを開いてくださるのだと語られました。


御言葉を聞くこと無しに、信仰は成り立たない。

実を結ばせる聞き方をイエス様は求めておられるのです。

従うのか、従わないのか。

「幸いなるかな。」とイエス様が言われたように、御言葉が私の言葉となり、私の信仰となってゆく歩み。そのように導かれてゆきたいと願わされました。


「幸いなことよ。・・・・主のおしえを喜びとし、昼も夜も その教えを口ずさむ人。

詩篇1篇1〜2節  聖書」

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