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「家族」*ルカ8章19〜21節



立春。冷たい空気の澄みわたる中で美しく咲く梅の花。蕾の膨らみ始めた木蓮。被造物の生命力に圧倒され、また励まされます。

礼拝のメッセージは、「イエスの母と兄弟」と題してルカ8章より。


❶肉の絆か霊の絆か

19節でイエス様のところに母と兄弟たちが、家族総出でやってきたことが書かれています。

家族全員が揃ってやってきたところからして、相当大きなことがあったのではと推測することができます。何か伝言があるだけならば、何も家族全員がこぞって、今日どこにおられるかもわからないイエス様を探し求めて行くこともなかったのです。


マルコ3章21節を見ると、こんなことが書いてあります。

「イエスの身内の者たちは、イエスを連れ戻しに出かけた。人々が『イエスはおかしくなった。』と言っていたからである。」と。


後に初代教会において群れのリーダーとして指導してゆくことになった弟ヤコブや他の兄弟たちは、この時まだイエス様のことを信じていませんでした。父ヨセフが死に、家族の大黒柱でもあった兄イエスがある日、神の福音を宣べ伝えると家を出て行ってしまい、そんな中で、彼らに聞こえてきた声は、さまざまな奇跡と共に「イエスがおかしくなった。」という情報でもあったのです。


ガリラヤ地方を巡り福音を宣べ伝えられていたイエス様は癒しのみわざを行われ、また悪霊を追い出し、次から次へとその噂を聞いて人々が集められて行きました。

イエス様の福音はパリサイ人たちが語る律法と明らかに違う力のあるものであり、人々は神の言葉を求めてイエス様のところに押し寄せて行ったのです。

イエス様は食する暇もなく、そんな人々に仕え忙しくされていた。

そのことを人々全てが好意的に受け止めていたのではなく、一つの情報には、正しいものだけでなくフェイクニュースも出てくるように、パリサイ人たちは、イエス様のみわざについて、「彼は悪霊のかしらだから、下々の悪霊はいうことを聞いて出て行ったのだ」と悪い評価を流した。


家族の者たちは、噂だけでは分からないから、行って確かめたい。そして、状態を見て、もし悪霊の影響だったら連れ戻したいとイエス様を心配して様子を見ようと皆でやってきたのではないか。そのように語られました。


この家族に向かってイエス様が語られた言葉が21節の言葉です。

「わたしの母、私の兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」


このお言葉について、プロテスタントにおいての伝統的説教の中では、「救われた者にとっての真の家族は神のみ言葉によって繋がれた家族です。神の家族になりましょう。地上の家族でなく、霊の家族を大切にしましょう。」と語られます。

それと真逆にカトリックにおいては「肉の家族を無視なさっているのではなく、神の言葉を聞く人とはこのような人たちであると群衆にご自身の肉の家族を紹介なさった。」という解釈だそうです。


しかしここで大切なことは、イエス様は決して肉の家族と霊の家族を対比されているのではないということ。どちらが大事とは言われておらず、肉によってつながっていたとしてもそれで十分かというとそうではない。否、その上に、神のお言葉に聞き従うという霊の繋がりが大切なのだと言われているのです。


肉のつながりは大切かというと、私たちがそれぞれ希望し、意図し、意志を持って家庭を選び生まれてきたのではないことを思う時に、まさに神の永遠の大いなるご計画のうちにそれぞれの家庭が与えられ、そこに置かれたことは大きなことであり、導きそのものであることを思います。しかしそこで終わってしまったら残念なことであり、それはどんなに追求しても「死」によって断絶してしまうということ。もし「死」を迎えたら、肉の家族との関係は切れてしまう、しかし霊の家族は「死」によって途切れることがない。だからこそ、私たちは肉の家族が霊の家族となることができるように祈っていくのだということを考えさせられるのです。


イエス様の語られた「金持ちとラザロ」のみことばが語られました。

よみにおいて苦しむ金持ちがこの窮状をアブラハムに訴えます。「私を憐れんでラザロをここに送ってください。自分のように生きている家族が苦しまないように、そのラザロを送って警告してください。死んだラザロが生き返って家族に伝えるならば彼らは信じて悔い改めるだろうから・・」と願います。しかし、アブラハムはその腕にラザロを抱きつつ金持ちに言うのです。「私たちとお前たちの間には大きな淵がある。ここからお前たちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。モーセと預言者たちに耳を傾かないなら、たとえ誰かが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」と。(ルカ16章19節から31節)(※「金持ちとラザロ」いう動画を見つけました。この聖書の部分が映像化されています。「イエスの教え;真の富;金持ちとラザロ」)


霊の絆は「死」でも切れることがなく永遠に続く。ゆえに、肉の絆にある人がそうなるように私たちは祈り、導かれたいと思います。

イエス様は、マリアを通してこの地上に来られたことを神のご計画のうちに大切に思い、その家族が霊にあってもしっかりと繋がることができるようにと願われたのでした。


❷神の家族である幸い

イエス様は21節で「神のことばを聞いて行う人たち」がわたしの家族であると言われました。

この「行う」とは、「実践・実行する」というふうに理解しますが、元々の言葉を見ると、ここにおいての意味は「聞きっぱなしにしてはならない。」ということだと語られました。

少し前の6章46節には「なぜ、あなた方は『主よ。主よ。』と呼びながら、私の言うことを行わないのですか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているか示しましょう。」と言われ、岩の上に土台を据えて家を建てた人と似ているのだと言われました。

この言葉は現在分詞が使われており、それは「かつて行った人」でなく、「ずっと行い続けている人」であること。


みことばを撒き続け、留まり続け、生活の中に根付かせて行っていく、そういう姿勢を持っているかどうか。過去の何かを持ち出してでなく「今」私たちの聞き方はどうなのか。

やがて「死」を迎えるまで、ずっと神のみことばにとどまり、それによって一つとされる神の家族「教会」の中で共に生かされるということ。


天国に行ったら、毎日が神のお言葉にあり、神の臨在の中で憩いを与えられる。今はその前味なのだと語られました。


ある人が、「ルカはこの『神のことば』という言葉をなぜこんなに使ったのだろう。それは『父である神』を意識していたからではないだろうか。」と言ったそうです。福音書のマタイ・マルコ・ヨハネにはこの表現が1回ずつしか出てこない。しかし、ルカが記したルカ書と使徒の働きの書簡には何回も何回もこの言葉が使われているのです。


父親が子に声をかけていくのは、その存在を慈しむからであり、「神のことば」は神が愛する子である私たちへ向けた「愛のことば」であるということ。

父である神は子である私たちに、優しい慈愛に満ちた言葉をかけてくださる。

それは「頑張れ!」と叱咤激励の厳しい言葉ではなく、温かい言葉で、私たちを立ち上がらせて下さる言葉であること。。。ああ、感謝です。


弱い私たちは神様に反発し、神の望まれる方とは逆の方向へと歩いていた者。そんな私たちに愛をかけ、言葉をかけ、気づきを与えてくださる天の父。私たちは、悔い改め、主のもとに戻る。そのように「父のことば」に聞き、それを求める人々が集まるところに「教会」が形成されてゆくのです。

「神のことば」には力があり、私たちを一つにすることができ、そして神様を父とした霊の家族とされてゆく恵み❣️

今週も主にある霊の家族と共に肉の家族のために祈り、主のみことばがなされてゆくことに期待しつつ・・・。

元気に体を動かして日曜学校もスタート!

みことばは先週の礼拝メッセージから。暗い世を照らすあかりである「神のことば」を私たちは大切にし、私たちが頑張るのでなく、完全に成就して下さる神様に頼り、他の何物でもなくその「神のことば」こそ大切にする羊の群れ、教会として成長することができますように❣️


「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れてはあなたがたは何もすることができないのです。  ヨハネ15章5節  」      聖書

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