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「励ましてくださる神様」*ルカ9章28〜36節

更新日:2023年3月20日


み言葉は「栄光に輝くイエス」と題してルカ書より


イエスさまは弟子たちの中からペテロとヨハネとヤコブだけを連れて、ヘルモン山に行かれました。この三人はいつもイエスさまに近しく傍にいて行動を共にしていた弟子たちです。

イエスさまはこのとき、なぜこの三人を連れて祈りの場へと向われ、栄光の姿に変わる場面を見せられたのでしょうか。


❶弟子たちを励ますためのしるしとして


先週語られたイエスさまのお言葉「日々自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」の意味は、「自分の人生の苦しみをそれぞれ負って生きよ」ということではなく「神の言葉に聞き従うときに世の人々の中にあって起こってくる葛藤や自分自身との戦いを通らされるけれどもそれでもなおキリストに従い主から与えられた仕事を担って行きなさい」ということなのだと学びました。

それを聞いた弟子たちの心の中はどうであったか。十字架の図がズドーンと重くのしかかりああ王権に着かれるはずだったのではないか・・・と心がしょぼんとして、ああ十字架・・・苦しい・・と落胆や恐れでいっぱいになってしまったであろうことが語られました。だからこそ、の今日のみことばです。


十字架を負う道、そこにはどんな意味があるのか。その先には何があるのか。

イエスさまは「日々十字架を負って従ってきなさい」と言われた時に、弟子たちが「はい!喜んで!」と思うのでなく、その心は当然揺れ動くということをご存知でした。

では、十字架の道は、苦しみ、痛み、そこで終わってしまうのか?この山に来られたのはイエスさまのお言葉から8日ほど経ってと記されていますが、この期間は弟子たちの間に非常に重苦しい雰囲気が漂っていたのではないかということも想像できます。


イエスさまはご自身の十字架の意味を弟子たちにも理解させるためにも、十字架についてモーセとエリヤと語られる祈りの場にこの三人を連れて行かれたのでした。

ペテロとヤコブとヨハネは、目の前でイエスさまのお姿が、お顔の様子が栄光の姿へと変わるということを目撃します。


弟子たちは悲惨な十字架を思い、すっかり心沈んでいましたが、その十字架の先にあるものが何であるのか。イエスさまはその栄光のお姿を見せることにより彼らに教えられたのだと語られました。

イエスさまは十字架のみを見ておられたのではなく「3日目によみがえる」と、神がよみがえらせてくださることをご存知でした。それゆえにどんなお気持ちでこの十字架を見られていたか、イエスさまは神様のご計画の全体像を見られていてこの十字架は一通過点なのだと、その先にあるものを見て、その喜びゆえに十字架におかかりになられたのでした。


30節には「二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していたのであった」とあります。なぜモーセでありエリヤなのか?それは

「モーセ」🟰律法の書

「エリヤ」🟰預言の書

をそれぞれ表し、旧約聖書全体を示すことなのだと語られました。

そして

「イエス」🟰新約聖書そのものを意味しています。

つまり、聖書が旧約と新約を通して一貫して語っている「罪から人を救う」神の愛とそのご計画・そして成就についてここで語られているということ。


この時エリヤとモーセとイエスさまが話されていた内容は「エルサレムで遂げる最期」とありますが、これは「十字架」のことであり、ここで使われている「最期」という言葉は出エジプト記の「エクソドス」という言葉が使われているのだと語られました。出エジプト記においてイスラエルの民が「エジプト」から自由になったように、イエスさまが人を「罪」から解放するために死んでくださる、そのことを意味しているのです。


イエスさまは弟子たちに「あなたがたは守りの中にあるのだ」とこの三人を祈り場に導かれたのでした。


❷十字架を「避ける」のでなく「負う」者に・・・


ペテロはこの姿を見た時に「先生。私たちがここにいることは素晴らしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために。一つはモーセのために。一つはエリヤのために」(33節)とイエスさまに言いました。「ペテロは自分の言っていることがわからなかったのである」と記されています。


ペテロはイエスさまのこの栄光のお姿を目にして、ああ、ここにいることは素晴らしい。ずっとこの幸せの場面にいたいと、十字架(苦難)が飛んでしまった。イエスさまは、十字架を通らなければと言われたのに、私たちもペテロのように十字架を避けようとしてしまう弱さがあります。


ある大学生の話が語られました。

ある教会に非常に優秀な大学生がいたそうです。才能豊かな彼はしかし社会に出ることに不安を覚えており、一般の会社でなく小さくてもクリスチャンの集まる職場に就職しようと考えていました。そんな彼のことをよく知る牧師が彼を呼んで言いました。「十字架を避けてはいけない。あなたには十分にやっていける能力が与えられているのだから、恐れずに出て行きなさい」彼はその言葉で、自分が逃げているということに気づき、一般の会社に就職してそこで豊かに才能が発揮され、良き主の証人として用いられていったということです。


私たちは時に、自分は十字架は負えないのではないかと怯んでしまう。しかし、十字架の道を通り、栄光を受けられたイエスさまのようにそこに付き従う私たちも、十字架を避けては栄光の主と共に住むことはできないのだということ。


ローマ8章16〜17節「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光を共に受けるために苦難を共にしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」


この社会で神様のみことばに従うということは、多くの戦いを経験します。。主日礼拝を守ること、教会を建てあげて行くこと、仏教や神道など多くの異教の儀式を拒否すること・・

その度に十字架にかかってくださったイエスさまの苦しみを覚えさせられ、それを「避ける」のでなく「担う」という決断をするようにと導かれるのです。


35節で神様が言われました。

「これはわたしの選んだ子。彼のいうことを聞け。」

キリストイエスに聞き、従いなさい、と。

世の中に妥協して行きなさい、と決して言われていない。現代は欧米にあっても、真実にキリストにつきしたがう信仰者が少数派となっていると聞きます。

戦争や疫病、自然災害や飢餓と共に、人々の心は冷たくなり、イエスさまが終末に起こるであろうと言われていたことが一つ一つしるしとして起こってきています。困難な時代にあって、「人々」や「自分」に聞くのでなく「キリスト」に聞き、従う者でありたいと、そしてその先にある希望に目をおいて歩みを強められたいと願わされます。神様はそのような者を常に励ましてくださるお優しいお方です。感謝します。


「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。ヘブル12章2〜3節   聖書」

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