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「神様に応答する」*ルカ8章22−25節

更新日:6月29日


土曜日の夕方に講壇に生けた時には膨らみかけていた蕾が・・・日曜日、そして月曜には綺麗に咲いて驚きました。寒い中でも次々と咲く花々に心励まされます。

さて日曜日のメッセージは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と題してルカ書より。


❶信仰はどこにありますか

新訳の四福音書の中で、一番初めに書かれた書物は「マルコ書」であろうと言われています。イエス様の昇天後、教会のリーダーとして、また様々な地方に宣教に出たペテロの鞄持ちとして同行したマルコが、イエス様を証する言葉を傍で聞きながらまとめていったものと言われているのがマルコ書です。


マルコ書の中では、この嵐を静められた奇跡(マルコ4章35節)と共に、水の上を歩かれるイエス様の奇跡(マルコ6章45〜52節)を共に記していますが、ルカは二番目の奇跡を省いており、イエス様が自然に対しても力を持っておられるお方であることをこの嵐の奇跡一度で伝えています。


旧約においても、

モーセが用いられて紅海を渡るイスラエルの民の様子(出エジプト記14章)や、ヨシュアに語られエリコの町へ向かうヨルダン川の水が堰き止められ道を作られたこと(ヨシュア記3章)、また預言者エリヤが外套で水を打つとヨルダン川の水が両側に分かれて道ができてそこを通ったこと(第二列王記2章)が記されています。


このような奇跡は、彼らが主に祈り従い、また神様が語られてゆく中で働かれ、その結果起こった現象であり、人間である彼らを通して、神様の御業が行われたということを見ます。

 ところが、今日の箇所では、イエス様ご自身が自然に向かって「黙れ!静まれ」とお命じになって御業を行われているということを見るのです。


「この神の子であるイエス様に対して、あなたはどんな信仰を持っているのですか?」ルカはそのように私たちに問いかけるのです。マルコ書においては、「まだ信仰がないのですか?」と他の古い訳では「信仰がないのはどうしたことでしょう」と書かれています。


弟子たちはずっとイエス様のおそばにいたのに、イエス様を信仰の対象としていたかというと、そこまでまだ育っていなかった。

さて自分はどうであろうか。自然さえも従う神の子であられるイエス様。この方に対して畏れをもって崇め、信仰を持ってゆくことについて改めて考えさせられます。


❷眠っておられたイエスをどう理解するのか

ある先生は「この箇所での泣きどころは、イエス様が眠っておられたということである。」と言われたそうです。

ダビデは、詩篇121篇において「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく 眠ることもない。」と記しています。

神様は実に、私たち人間と違い眠ることもまどろむこともないお方。

だから、ここでイエス様が眠ってしまわれたというのであるなら、イエス様は偽りなのでしょうか、と。


預言者エリヤは、カルメル山においてバアルの預言者450名と対決した際、「火をつけない薪の上に雄牛を置き、そこに火をつける神が本当の神だ」と勝負を挑みました。バアルの預言者たちは朝から真昼まで叫び、踊り、果ては身体に傷をつけて血を流しバアルの神を呼び求めますが、いっこうに答えもなく火もなく、何も起こりませんでした。その様子を見てから、エリヤは薪の上に大量の水をかけ天の神に祈ると、主の火がすぐに降り全てを焼き尽くしたのです。それまで神とバアルとどっちつかずの信仰を持っていたような人々は「主こそ神です。」とひれ伏します。


この時にバアルの預言者にエリヤが言った言葉は「もっと大声で叫べ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると寝ているかもしれないから、起こしたらよいだろう。」でした。


神様は決して眠られるお方ではない。それではここでイエス様が眠っておられたというのはどういうことなのか。寝入ってしまわれていたとは、神を信じる者として生死を彷徨う時にも平安であられる姿を模範として弟子たちに示されたかったから?

あるいは弟子たちの信仰をふるい起こすために期待しながら仮寝をされていた?


メッセージで牧師が語られたのは、イエス様は疲れのために眠っておられたのではないだろうかということ。連日昼夜を厭わず人々がイエス様のところにやってきて、イエス様はその人々に対応し続けられたこと。限界のところにご自身をおいておられたということ。


ピリピ2章にはこのようにあります。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を虚しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿を持って現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、全ての舌が『イエスは主です。』と告白して父なる神に栄光を帰するためです。」


イエス様は地上に降りて来られる時に、父なる神と同じ力を持っていたのに、神の子であられる特権をお捨てになるという決断をされ、この地上に来てくださった。ここにキリストの謙卑があるのだと語られました。

「神が人になるということは、『限界』の中にご自分を置くということ。『無限』の特権を捨てて、『有限』の中にご自分を貶めてくださったということ。」


キリストの二性一人格について考えさせられるのです。「福音書を読む時、神性と人性がイエスという一つの人格のうちに確かにあり、しかも、調和しているという不思議を感じずにはいられない。」(水草牧師の神学ノートより引用)


神としてのお姿でありながら、完全な人として歩まれたイエスさまは、疲れも感じる体を持ち、またお腹も空き、そんなところに身をおいてくださる中でのこの時の「深い眠り」で

あられたのだろうと・・・・。


そして弟子たちはその嵐の中、水をかぶり、死の危険を感じながら信仰は揺らぎ、「自分が死にかけているのに、イエス様は何もしてくださらないのですか!!」と怒り焦り、イエス様を責め立てている、という状況を見ます。


「先生、先生。私たちは死んでしまいます。」8章24節。

詩篇には、同じように死の恐怖を感じているダビデの言葉があります。「奮い立ってください。目を覚ましてください。」詩篇35篇24節

「起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。」詩篇44篇23節

「その時、主は眠りから目を覚まされた。」詩篇78篇65節


「神様!私は今危機的状況なんです!助けてください!」と私たちも窮地の中で叫ぶことがあります。「神様、何してるんですか!今、こんなに大変なのに。なんで助けて下さらないのですか?」と。

そのように苦しみの中で、まるで神様が眠っておられるかのように神様に叫ぶならば、同じことであるということ。


著者ルカは、この書物においては嵐の話を一度しか書いていない。ところが、彼にはもう一つ著書がありそれは使徒の働きの書で、そこには、もう一つの嵐での出来事が記されているのです。

使徒27章。パウロはローマに行く途上で大嵐に遭遇しました。

船が漂流し、座礁してマルタ島に辿り着くまで、この大嵐でもはや命もここまでかと全ての人が思う中で、パウロが言うのです。


「元気を出しなさい。あなた方のうち、命を失うものは一人もありません。失われるのは船だけです。昨夜私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って・・・・(中略)

ですから、みなさん。元気を出しなさい。私は神を信じています。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私たちは必ずどこかの島に打ち上げられます。・・・(中略)これであなた方は助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。」使徒27章22〜34節


「頭から髪の毛一本失われることはない。」この言葉はイエス様がかつて言われた言葉です。

「しかし、あなた方の髪の毛一本も失われることはありません。あなた方は忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。」(ルカ21章18〜19節)


「神の許しなければ、私たちの髪の毛一本でさえ失われることはない。」迫害の中でも嵐の中でも。。。パウロはこの言葉、信仰をしっかりと握っていたのではないか。そう語られました。キリストの「忍耐することによって自分のいのちを勝ち取れ」という言葉。


イエス様が「あなた方の信仰はどこにあるのか?」ーと尋ねられる時、その主への私たちの応答は、ここにあります。

神の許しなくば、どんな危険の中でも髪の毛一本失われることはない。

みことばを聞きながら、ローマ8章28節を思いました。

「神を愛する人々、すなわち神の計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となることを私たちは知っています。」主に従いゆき、主の御許しの中で起こることと、信頼して歩む、私の信仰はここにあると、告白して進むということ。


嵐を静める力を持っていても疲れたら眠られる、そこまで身を貶めてくださった主、私の神。私たちの人生はその主が舟に共に乗ってくださっているのだということ。

感謝しつつ、覚えつつ、主に喜ばれる信仰を告白してゆきたいと願わされたことでした。


CSは、肉の家族と霊の家族について先週の礼拝説教より。字のない絵本を制作したり、暗唱聖句もよく覚えられました!


午後は聖書の学び講座がありました。オンライン・対面にて。


感染急拡大のため、礼拝もオンラインがメインになりますが、引き続き細心の注意をしながら、神様に委ねつつ歩みたいです。

主の守りがありますように。


「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には、報いてくださる方であることを信じなければならないのです。」ヘブル11章6節   聖書

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