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「仕方がない」*第一サムエル記13章

更新日:7月19日


今日も元気よく始まりましたCSです❣️お話は第一サムエル記8章から。暗唱聖句は


お話をよく聞けるようになり、理解力・集中力・暗記力・・・共に恵みとなってついてきますね。。。CSはどなたでも参加歓迎です。(乳児から小学生まで❣️)どうぞ突然でも親御さんとご一緒にでも、いらしてください❣️

→ただいまは、毎週日曜日10時20分から11時10分までです😍

ゲームは聖徳太子ゲームというのをやりましたよ❣️みんな初めてのゲーム。耳を澄ませて一斉に聞こえてくる言葉を繋げて当てました!賛美も元気にジャンプ!!!

工作は、お相撲さんを作りました。折り紙でせっせと折り、プーッと膨らませて

はっけよーい、のこった!のこった!のこった‼️

こういう、物を手作りして遊ぶ、頭や手や心をよいしょ!よいしょ!と使って皆で遊ぶひとときの積み重ねは結構貴重だなーと、みんなの成長ぶりを見ながらしみじみです☺️


今日の礼拝は第一サムエル記13章から。



❶神を見ようとしなかったイスラエルの民の姿

サウル王とその息子ヨナタンが率いるイスラエルの民3000人に対し、戦うペリシテ人の数は戦車3万、騎兵6千と海辺の砂のように数多くの兵(13章5節)と聞くだけで、その差に愕然・・・の箇所です。

↑ピンク色の印がペリシテ人が住んでいた海岸線沿いの町です。


しかし11章を思い起こしますと、そこでは勝ち目のない戦いに勝利したイスラエルの民でした。

それは、彼らが、偶像を捨て去り、主に悔い改め、真実の神様を仰ぎ見ようとしたときに与えられた勝利、信仰による勝利でした。

今回も信仰が必要とされたのです。ところが、民の心は萎え、「こんなのは戦いにならない」と、不信仰な惨めな姿が6節以降に書かれています。

彼らは目の前の大きな敵に追い詰められて、危険を感じ、恐れ惑い、洞穴や奥まったところ、岩間、地下室、水溜めの中・・・・あらゆるところに散り散りバラバラに逃げて行きます。サウルについていた人たちも、震えながら従っていた(7節)とありますから悲惨な状況です。


彼らは、11章において迫り来る強い敵にも、「これは神の戦いだ!」と立ち上がるサウル王に従い、勝利を得たにもかかわらず、今回は恐れ怖気づいたのでした。


私たちも、ある時に神の力で試練を乗り越えたとしても、さらにくる次の試練に同じように耐え、乗り越えられるかというと、そのような信仰を持ち続けているかを主の前に自省することの必要を思います。


ある時に、舟喜信先生が、「信仰は惰性では送れない」と言われたそうです。

つまり、過去に勝利した信仰は、その後、そのままで次も・次も・・とはならない。

毎回、毎回、主の前に信仰を問われ、それを働かせねば勝利は確約されていないのです。

私たちは、誰を信じ、何を見上げているのか。

常に問われているということ・・。。


イスラエルの民が「恐れ」に支配されてしまったように、私たちも「恐れ」に包まれると

信仰がなくなります。

聖書の中には「恐れるな」という言葉が366回も出てくるそうです。


つまり365日毎日プラス1日‼️常に私たちは神様から「恐れるな。わたしがあなたと共にいる」という声を聞き続けることが非常に大切であり、信仰を持ち続けていく上で必要なことであると語られました。

第二テモテ1章7節「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」


「恐れ」は、まるで積乱雲のように広がってゆき、そして雨がザーッと降るごとく、「ああだめです」「無理です」という不信仰が私たちの心を占めてしまう。

だからいつも「私は神の子とされた者である」というところに立ち続け、「恐れるな。」という主の声を聞き続けるのです。


ここに立ち続けなければすぐに恐れ、弱り、後ろ向きの人生になってしまう弱い存在であることを思います。


❷サウルの信仰を試みられた神

8節から記されているサウルへの神様の試み。

大事な戦いの前にいけにえを捧げる例祭はサムエル以外には決して許されない神聖な儀式でした。しかし、7日目に、なかなかそのサムエルが到着せず、兵隊たちが次々と去っていく姿を見て、しびれを切らしたサウルは勝手に強引にささげ物をささげてしまいます。


10節では、サウルがそれを献げ終わった時に、ギリギリのタイミングでサムエルが到着したと書かれています。


神に試された時に、命令を守れなかったサウル王。しかし彼は悔い改めることなく、

「だって、あなたが来なかったから。士気が下がり、仕方なくやった」とまるで

アダムとエバが罪を犯した時に、「だって」と責任転嫁した時にように、

言い訳をするのです。


私たちは、自分自身の決断・行動において「だって仕方ない」と周りや置かれている環境や人のせいにして言い逃れしようとします。

これはまさに私たち人間に受けつがれている罪の性質であり、「仕方がない」という便利な言葉で終わらせようとする情けない姿であります。


信仰とは?良い環境にある時のみでなく、困り苦しみ、ピンチの時に働かせていくもの。


神はサウルの信仰を試みられましたが、この時に、サウルは本当は悔い改めるべきでした。

「仕方がないから」そういう彼を、神様は退けられていったのです。

悲しい現実です。

緊張します。自らを省み、本当に主が願われていること、命じられていることに心を傾け、神に従っていくことを選択していくことの大切さ。気づきが示されたら悔い改めていくことを思います。


❸苦しい時にこそ神に目を向けましょう。

この四面楚歌のイスラエルの状況は、14章において大逆転劇に変わります。

それはサウル王の息子ヨナタンによってもたらされていきます。


真っ暗闇の中に光る一つの光。それはヨナタンの信仰でした。

彼が神を信頼し、神に祈り、求めていった時に、人数や武器を見れば勝敗は決まったものと思えるような状況が一変していったのです。


大きな希望です。

この真っ暗な世の中。神があえてこの状況をつくり、そこに私たち一人一人を置かれた。

「あなた方は世の光です。」と言われる主。そして、光の子として、私たちを遣わし、置かれた主は、キリスト者一人一人を通して、主の光を放っていかれようとされているのです。


目の前の状況を見て気落ちするのでなく、信仰を働かせて生かされていくということ。

信仰とは、どんな中にあっても、他の何にでもない「神のみことば」に聞き従うということ。


賛美「信仰こそ我が身を助ける杖」が引用されました。

こんな歌詞です。


「信仰こそ 我が身を助ける杖 戦いの時の強き剣

恐れも危険も誘惑も越えて 御国を目指して勇み進む」


信仰を働かせるときに、神様は私たちの人生にダイナミックに働き、私たちを本当の意味で生かしてくださる。この「なまもの」である信仰を惰性に陥ることなく、しっかりと働かせて主を見上げて生かされる一週間とされたいです。


「信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられる事と、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

ヘブル11章6節」 聖書

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