ますます花々の美しい日々です!午後の聖書の学びの後、ちょうど講壇に生けた花に光が当たり、あまりに綺麗なのでパチッ!光に溢れた芍薬の花が美しく見とれてしまいました。日曜学校では動く虫さん工作!先週のカタツムリに続き、ストローで上から吹きシャクトリムシみたいな動きです。☺️
礼拝のみことばは、第一サムエル記25章より「神の賢さと人の愚かさ」と題してメッセージ。
ダビデは次の王にと油注がれましたが、サウルに命を狙われ追われる身でありました。その中で起こってきた事柄が今日の箇所です。神に油注がれ、選ばれた器と接していく人々について、「アブラハムを祝福する者をわたしは祝福する」と言われた神様が示されていることを学びました。
❶愚かなナバル
1節には預言者サムエルの死が記されています。霊肉ともにダビデを支え、良き理解者であったサムエルを天に送るということはダビデにとって大きな痛手、悲しみであったに違いありません。サウルが敵意を示した時も、ダビデは主にあるサムエルのところに逃げ込みました。サムエルは強い軍隊を持っていたわけではありません。共に主にある信仰を持つ者として、神様にある大きな慰め・励ましでありました。
ダビデは悲しみと同時に、自分のところにつく600人もの部下を養っていく責任も負っていました。マオンの荒野。荒野というからには、そこは生活してゆくには厳しい場所であったと思われます。ダビデを頼ってきたものたちの期待や信頼を裏切るわけにはいかない。
ジョージ・ミュラーのことが語られました。彼は1万人もの孤児を、神様にのみ頼って養い、育てた人ですが、どのようにそれを成したか。彼はいつも午前中の大切な時間に、
数多くの資産家に寄付を募りに行ったのではなく、全てをご存知の神様に祈りに行った。
そして、この奇跡のような事業は続けられて行ったのです。
ダビデも数多くの部下とその家族を養うために、導きの中で実直に過ごし祈っていたことでしょう。
このマオンに一人の人がいた、と2節からナバルの紹介が始まります。
彼はカルメルで事業をし、羊🐏3000匹、ヤギ🐐1000匹を所有していたとあります。
現代とは違い、当時の資産は家畜においてはかられ、ナバルは非常に裕福であったと聖書は記します。
このナバルという人の名前の意味は「愚かな」という意味がありました。どうしてそのような名をつけられたのか、不思議ですが、彼は3節において、その名の通り「頑迷で行状が悪かった」とあります。カレブ人であったと書かれていますが、出エジプト記においてイスラエルの民がカナンの地へ入るための偵察隊を送った時に、多くの者が否定的な発言をする中、「これは神が我らに与えてくださった地だから行くべきだ!」と信仰を表明し後々、唯一入ることを許されたあのヨシュアとカレブ。ナバルはそのカレブの家系に属する者であったのです。
信仰は何もしなくても自然に代々と受け継がれてゆくものでなく、伝え、個人と神様との間において与えられる個人的なものであることを常に意識し、そのために祈っていくことの大切さを知らされます。
5節でダビデは10人の部下をこのナバルの元に遣わします。これまでナバルの所有する家畜をその放牧の間守り、何一つ奪う事もなかったことを伝えながら、彼を祝福し「何か手元にあるものを与えてください。」と告げさせます。
ところがそのダビデの申し出に対して、ナバルの対応は非常に愚かで冷たく乱暴なものでした。
自分達を守ってくれたダビデのことを知りながら、知らないふりをし、ダビデを主人の元から脱走した家来とけなし、ついにはダビデに大口をたたいて、ダビデの要請をキッパリ、断ってしまうのです。
ダビデの窮地を良く知りながらも、応えようとしなかったのです。
なぜか。それは彼が非常に「愚か」であったからです。
ダビデは神の選びの人であり、「神が祝された人を祝する者を神は祝福してくださる。」
このことを知ろうともせず、認めようともせず、従おうともしなかった。
私たちは自分が今持っているものは、全て自分によるものだと錯覚してしまいます。
しかし、自分に与えられたものは、元々の財産というものは、全て神から与えられたもので、私たちが握った瞬間にもそれはするりと私たちの手をすり抜けてゆく儚いものであることを覚えておかなければなりません。
詩篇14篇1節にはこうあります。
「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。」
つまり、愚かな者は、神への畏れがなく、信頼がない。
神の言葉に答えようとしない姿、神の言葉を聞きながら従おうとしないなら、そのような歩みは愚かな歩みなのだと語られました。
❷賢い妻アビガイル
13節でダビデは怒ります。
ナバルに対して理不尽なことを言ったのではなく、精一杯良いことをしてあげたのに、呪いと蔑みを受け、全否定されたことへの怒りです。
私たちも、会社や家庭、あるいはその地域において、コミュニティにおいて、善意で相手に尽くしたり、心を込めて何かをしたのに、それを全否定され、失礼な態度をとられたら、それは大きな怒りへと変わります。
ダビデは怒り、部下にナバル一家を襲うように命じるのです。
ナバルがダビデから恩恵を受けておきながら、払うべき報酬を支払わずに、はずかしめたことへの怒りは当然のように思えます。
しかし、もし、ここでダビデがナバル一家を滅ぼしていたら、サウルと同じことをしたに過ぎません。サウルはノブの町で、アヒメレクと祭司たちをその怒りに任せ皆殺しにしてしまいました。
自分の思いが通らないからといって、感情に支配され、ことを起こしてしまうということは「罪」に他なりません。このダビデに、罪を犯すことを思い止まらせたのは、ナバルの妻アビガイルでした。
彼女は賢明で美しい女性だったと書かれています。(3節)
なぜ彼女が賢かったと知ることができるか。それは彼女がダビデをよく理解していたことから見ることができます。彼女は、ダビデが神に立てられている御心の中にある人であることを理解し、ダビデに対して「あなたは主の戦いを戦っておられる」と告げるのです。
「今、あなたが置かれている苦しみすべては、主があなたに栄光を表してくださるためのものであり、これは主の戦いなのです。ですから、こんなことで罪を犯してはいけません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、あなたのいのちは、神、主によって命の袋にしまわれているのです。あなたの敵の命は、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。」
そのように告げるのです。アビガイルの信仰。彼女の目線はすごいなあと改めて思います。
ダビデはこの「当を得た忠告」に感動します。そして耳を傾け、これを最上のアドバイスとして受け入れます。
「神がほめたたえられますように。神があなたと出会わせて下さった。
あなたの判断が、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日私が自分で復讐しにゆくのをやめさせた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった・・・。」ダビデの返事です。
❸主が報いをされる。
ダビデの元に、多くの食物を置き、アビガイルは家に戻ります。夫のナバルは宴会を開き上機嫌で酔っていました。アビガイルは何も話さずに過ごし、翌朝ナバルが酔いから覚めてから、一連の出来事を伝えます。すると、彼は気を失い石のようになってしまい、それから10日して死んでしまったのです。
なぜ、彼が死んだのか。38節に「主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」とあります。神様に打たれて死んでしまったのです。ダビデが自分で復讐をするのを思いとどまった時に、神様の出番がやってきた。神様ご自身が動かれたのです。
ローマ12章19節が読まれました。
「愛するものたち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。」
私たちはこの言葉をどれくらい信仰生活にとどめているか。そのように語られました。
神の子である私たちに、神様はいつでも諦めなさい、と言われる方ではない。ご自分の大切な聖徒たちが何をされても良い、と黙っておられる方でなく、怒られる神であられるということ。
一つ一つの、なぜこんなことに・・ということを、神様は覚えておられ、神ご自身が復讐に立ち上がってくださるのです。そのような主を知るなら、信じているならば、自分で復讐することなどしなくて良い。神様の怒りに委ねれば良いということを私たちは知るのです。
最後に励ましを受けたのは、なぜ、この25章があるかと語られたことでした。
24章と26章は続いており、この25章はなくても良いようにも思えるというのです。
24章において、サウルが悔い改め、泣いて詫びてくれた。ところが26章では、再びサウルが命を狙ってくるというのですから、これを読む私たちでさえ、ほとほと嫌気もさしてきます。
ダビデよ、こんなにおかしなサウルに命を狙われ続け、もうサウルをやっつけても良いのではないか!?と叫んでしまいそうな26章です。そんなダビデが、この25章で、アビガイルの言葉を通して、神様から豊かなお取り扱い、励ましを受けたのではと語られたのです。
アビガイルは言いました。「あなたは主の戦いを戦っておられる」のだと。だから、主が戦ってくださるのだ。怯むことはない。恐れることはない、と。
執拗に追われ続け、養うべき民がおり、いつこの戦いは収まるのか。いつ主の約束はなるのか。苦しみの中にあるダビデにとってこれ以上の励ましはなく、ダビデはこの信仰にもう一度固く立つことができた。
このアビガイルとの出会いとその忠言による25章を通り、26章において、ダビデは、感情に支配されることなく主の約束を固く握って、もう一度良き信仰者として立つのです。
優しい主は、私たちの置かれている場所、その思いをよくご存知で、信仰を持って主に従うものに良くしてくださる方。育ててくださる方。励ましてくださる方であることを覚え、この神様をアビガイルのように主を畏れつつ歩まされたいと思いました。
「愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。箴言12章16節」
「『悪に報いてやろう。』と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。箴言20章22節 」聖書
Comments