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「じっくりゆっくり黙示録5講解説教」〜❷番目の教会✴︎スミルナにある教会へ✴︎ヨハネの黙示録2章8〜11節

更新日:2023年12月4日



美しい秋空です。コスモスの花も風に揺れ、広がる海も美しい二宮です。

子どものC Sタイムはみんなで賛美・ダンス☺️ゲームと身体をいっぱい動かして楽しいひととき。午後は竹林にある墓前にて御言葉に耳を傾け、竹の葉と紅葉が風にさやさやさやと美しく音を立てる中、賛美をささげました。礼拝は「死に至るまで忠実でありなさい」と題して黙示録2章より。


イエス様は黙示録の中で七つの教会のうち二つの教会には非難の言葉を語られませんでしたが、今日学ぶスミルナの教会がそのうちの一つの教会でした。


❶スミルナの教会の聖徒たちの状況


イエス様はここで「わたしはあなたの苦難と貧しさを知っている」と語られています。

スミルナの教会とはどんな教会だったのでしょうか。

パウロがかつて伝道していく中で、エペソの次に目を留めた地域こそはこのスミルナでした。なぜか。それはこの地域が非常に栄えていた場所だったからだと語られました。


スミルナという地域は沿岸にあり、ゆえに貿易が盛んでした。エペソの町がアジア州の中で当時最大の貿易港であったように、スミルナにも多くの外国船が往来し輸出入が盛んに行われていたのです。

AD25年。ローマ皇帝テベリウスが小アジアに神殿を建築するという計画を立てました。そこで各地域はこぞってローマの皇帝の好意を得ようと努力しました。それは現代で言えば、リニアモーターカーのために誘致活動に励み、競い合うのと同じです。

この争いに勝利して、神殿を建てることができれば、ローマの権力と町がしっかりと結ばれれ、そこに繁栄が約束されるのです。

選ばれた町はローマに忠実な市民であることを誇りとして生きていく町、それはローマ皇帝の言いなりになっていくような町となるということでした。


スミルナはそのような町となり、そうなるとローマ皇帝に忠実に忠誠を尽くす人々が徴用され、社会的地位を得て、経済的繁栄が与えられていく。

一方、そのような社会の中で、キリスト者たちは、皇帝礼拝を拒むゆえに迫害され、地位も与えられず、貧しくなっていったのです。

ここにスミルナの教会が貧しいと言われた所以があったのでした。


会社においても、会社の思い通りになってくれる人が重用されます。「私はこうです」と主張してゆく人間は弾かれて行く。信仰もなるべく公にしないように、トラブルのないようにはいはいと妥協してゆくならば、その時、私たちが見ているのは「人」であるということに気づくべきであること。私たちが見るべきは「神」なのです。


スミルナの教会には、世の中に迎合し、それを基準に生きるという選択肢もあったのです。しかし彼らは決して、そうしなかった。イエス様は迫害の中でも、神に誠実に生きようとしたスミルナ教会の人々に対して、貧しいと言われる人々に対して「あなたは富んでいる」と言われました。困難・経済的貧しさに追いやられたとしても、彼らは神の御前に非常に富んでいるのだと言われたのです。私たちは「神の御前で富む者になっているか」そのことを忘れてはならないのです。


❷イエスの励まし


10節でイエス様は「何も恐れることはない」と言われました。

「初めであり、終わりである」方(8節)がそう言われたのです。スミルナ教会の人々はこれからさらに迫害があるかもしれない、死の危機に直面するかもしれない、しかし、その死さえも乗り越える力を持っておられるイエス様が、そのように声をかけてくださっているのです。黙示録1章17〜18節ではイエス様についての紹介が書かれています。

「初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」そう書かれています。


人が人に対してできることは、死に追いやることまでです。

しかし、イエス様・この死を乗り越えたお方は、よみがえらせることがお出来になり、永遠のいのちを与えることのできるお方なのです。


悪魔は人間を滅ぼそうと一生懸命活動し躍起になっていますが、神様はそれさえも「テスト」として用いられるのだと語られました。ヨブがその良い例だと。


金属は火によって不純物を取り除かれ、価値が高められます。そのように信仰も試されることによりいよいよ強く、その価値は高くなってゆくのです。罪が焼き尽くされるのです。


イエス様は「この苦難は10日間」と言われました。試練は期間が予め限定されているものだと悟ることができます。2日や3日、1ヶ月や半年1年でなく「10日間」と書かれています。イエス様は主権を持って期間を限定されているのだということ。


イエス様の方をまっすぐに向き、忠実に生きようとするならば、やがてこの信仰のレースの先にゴールがあり、そこで、神様が待っていてくださりしっかりと受け止めてくださるのだということ。


❸勝利する者への約束

①命の冠 

 スミルナの町は競技の盛んな町であったそうです。それゆえにイエス様がこのようなたとえを用いられたのでしょうか。勝利の冠、栄光の冠を神様は与えてくださると約束してくださいました。

②イエス様の約束

 11節で「勝利を得る者は第二の死によって害を受けることはない」そのように書いてあります。私たちはこの世の人生にあってまず第一の死を体験します。これは生きている者すべてが体験する「死」です。しかし、聖書は、その次に「第二の死」があるということを教えているのです。私たちが本当に恐れるべきはこの「第二の死」です。

たとえ、第一の死を迎えるこの世の人生がどんなに幸せであっても、「第二の死」で滅びてしまうならそれは悲惨なことです。私たちが目を留めて行くべきはここなのです。


「死に至るまで忠実でありなさい」とイエス様は言われました。

私たちが本当に恐るべきは「第一の死」ではなく「第二の死」です。

やがてこの人生のレースが終わった時に、神様に「善かつ忠なるしもべよ。よくやった」と手を広げ抱きしめてくださる神様の中に、マラソン選手がゴールで倒れ込んでいるときのように、私たちも走り抜きたいです。


「私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと。すなわち後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して一心に走っているのです。ピリピ3章13〜14節 聖書」

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