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「あなたは大切な人」*ルカ8章26〜33

更新日:6月29日


散歩をしていると梅の花があちらこちらで咲き、可愛い鳥たちが嬉しそうに枝の中でさえずっている姿に優しい春を感じる今日この頃です。


礼拝は「レギオン」と題してルカ書よりメッセージ。

イエス様の宣教はガリラヤ湖の西側、ユダヤ人の地において行われていましたが、ここでイエス様がガリラヤ湖の東側にある異邦人ゲラサ人の地へ向かわれたことがわかります。

この地方はなんとなく田舎のようなイメージを受けますが、デカポリス(デカは十、ポリスは町・都市の意)と呼ばれ、その名前からも分かる通り10の町があった地方であり、ギリシャ・ローマ文明の影響を受けた町々、文化に溢れた建物・立派な遺跡がいっぱい建っていたような栄えた場所であったのだと語られました。


そして、イエス様がここに出かけて来られた理由は?今日語られた男性に会うためでした。

❶悪霊はイエス様をよく知っている

イエス様がこの地に着いて初めて会った人。イエス様を初めに出迎えた人は、悪霊に取り憑かれていた男の人でした。(ルカ8章27節)

私たち人間は目に見えるものは信じるけれども、見えないものの存在はなかなか信じることができません。悪霊に取り憑かれるとはどういうことなのか。想像するのも難しく思います。しかし、霊の世界はあるということをしっかりと意識することは大切です。

ヨハネ4章24節には「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」とあります。


肉眼で見ることは出来ずとも、神様がおられると信じること。それと同時に、悪霊がいて、悪霊も働いているのだということを知っておくことは大切なことです。


聖霊は私たちに対して良い働きをしてくださいます。弱い私たちが罪を犯すときに、それを示し、イエス様と似たものとして成長させてくださるのです。(「私たちは皆、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章18節)


一方悪霊は、私たちに悪い働きをし、悪影響を及ぼして来ます。私たちが罪に陥るようにと誘惑し、騙しながら、私たちを主から離し遠ざけようと狙いを定めてやってくるのです。


ハリーポッターの映画について挙げられました。本は5億冊、また映画化等よる興行収入は約1兆円と言われているそうです。しかし、あるセミナーの講師がこの映画について、「数秒に1度の割合で暴力を振るうことを肯定するようなメッセージが、見る人の脳裏に刻まれるようなサブリミナル効果というものが使われているのですよ。注意してください。」と警告されたそうです。

そういえば、少し前のニュースで事件を起こした少年の愛読書がこの本であったと新聞に書かれていたことをメッセージを聞きながら思い出しました。


知らず知らずのうちに、私たち人間にとって心地よい、楽しい、面白いと思うようなエンターテイメントの中にも悪霊は入り込み、上手にそれを用いて働きかけていることを思うと、この日常の中で、どれほど私たちが注意深く、選択し、生活しなければいけないか改めて考えさせられます。


神様の造られた美しい世界で、御心を求め、御心に聞き、そこに生きたいと思う私たちに、悪魔はあの手この手で近寄ってきて、その道を壊そうとする。巧みに働きかけてきて、私たちはいとも簡単に支配されてしまうということを見るのです。


しかし、私たちの主、王として地上に来られた神の子イエス様は、圧倒的な力を持っておられる方。私たちはこの主、聖霊様が内側に住んでおられるが故に恐れる必要はなく、助けをいただいて行くことができるのです。


さて。このようにイエス様が神の子であり、王の王である方であることをここで誰が知っていたか。残念なことに、ずっとイエス様と旅をし、間近で奇跡を見、その素晴らしさを体験していたはずの弟子たちは、先週の箇所でも学んだ通り、このイエス様がどういう方であるのかその本質をまだわかっていなかった。ところが悪霊どもは、このイエス様がどんな方なのかをよく知っていたというのです。


「彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子イエスよ。私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください』」(ルカ8章28節)


私たちは霊的なことに鈍感です。

「霊的って何ですか?よくわかりません。」という方もおられますが、みことばをよく聞き、御心を知り、祈っていきたいということは霊的な事柄です。


31節で「悪霊どもはイエスに底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。」とあります。「底知れぬところ」とは黙示録20章3節にもありますが、悪霊が最後の審判で裁かれるところです。彼らはやがて神に裁かれることを知っているのです。


ヤコブ2章19節には「あなたは神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて身震いしています。」とあります。


私たちは悪霊に対して恐れることはありません。主が共にいてくださるからです。しかし、だからと言って無関心になっていたら気付かないうちに影響を受け、悪霊に隙を与えるということがあるということを忘れず、よくよく生活の中において事を吟味することが大切だということを覚えたいと思います。


❷悪霊が豚にのりうつった出来事を通して教えられること


31節にありました「悪霊ども」という言葉、また「レギオン」という言葉から、この男の人の中に入っていた悪霊は一つではなかったということを知ります。

「レギオン」とはローマ帝国の最大6000人の軍隊だそうで、それほど多くの、複数の悪霊が入っていたのです。


この悪霊どもは、イエス様に「豚に入ることを許してください」と懇願し(32節)イエス様はそれを許されます。すると「豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、溺れて死んだ」とあります。マルコ書によるとこの豚は約2000匹もいたそうです。この豚の飼い主たちは驚き、彼らから話を聞いたゲラサ人たちは「イエス様がこの地に留まっていたらもっと何かが起こるかもしれない、お願いだから出て行ってください。」と頼みます。

それほど衝撃的な事件だったのです。


ここで、学者たちは、「豚にのりうつって豚が全部死ぬなら、同じではないか。」とか、「豚がかわいそう。」「豚は死んでも悪霊は生き続けたのだろうか」など様々な疑問を述べているそうです。しかしここで大事なのは、「聖書は、私たちに必要で知ってほしいことしか記していない。」ということに目を向ける事だと語られました。このことから知る事を順に3つ挙げられました。


一つ目は、この男の人は、27節「長い間服を身につけず、家に住まないで墓場に住んでいた」とあります。29節には「彼は鎖と足枷で繋がれて監視されていたが、それらを断ち切っては悪霊によって荒野に駆り立てられていた」とあります。多くの人々が彼を恐ろしく思うと同時にかわいそうにも思い、服を着せようとしたり、助けようとした。しかし、そのような人の心も断ってしまうような恐ろしい大きな力が働いていた。人々は彼の上に働いていた悪霊が、2000匹の豚を溺れさせるほどの残虐な力であることを、このことを通して見させられたのです。


二つ目は、このことを通して、人がサタン悪霊の支配から解放されるには、非常に大きな犠牲が必要であることを知るということです。

CSルイスの「ナルニア国物語」の話が出てきましたが、この本の中で、一人の男の子の過ちのために死の代償が払われるということがそこにも描かれています。

人間が陥ってしまった呪いから解放されるには、それに相当する代価が必要とされるということ。それがイエスキリストの十字架の贖いであるということです。


三つ目は、この2000匹の豚は大きな犠牲であったけれども、イエス様はこの男の人の存在と救いを、それ以上に「尊い」と見ておられたということです。神の似姿として造られた人間であるこの人。したいことをできず、したくないことをさせられてやがて滅ぼされてしまう。もしもイエス様が助けて救ってくださらなければ破滅してゆくこの男の人。イエス様は彼を「尊い人」として見てくださっていた。

100匹の羊がいて、そのうち一匹が迷いでたら、九十九匹を置いて、その一匹を捜し出してくださる。わたしは良い羊飼いだと言われる方。それがイエス様であることを思うのです。

同じように、私たち一人ひとりのことをそのように見てくださるイエス様に感謝します。。。


❸イエスによって救われたことを喜び感謝しましょう

このゲラサ人の男の人の姿は、少し異様で私たちとはかけ離れているように感じます。しかし、悪霊の支配の元に置かれているということを見るときに私たちもまた同じであることを知るのです。


悪霊の支配下にあると、私たちはしたいと思うことができず、自分ではしたくないこと、してはいけないとわかっていることをも見過ごし、行なってしまいます。その悪の中に自分を置き、やがてその自分の姿に失望し、神様への信仰にも道が閉ざされていってしまう。


しかし、そんな弱く愚かな自分の所にこそイエス様がきてくださったということ。

アダムとエバ以来の悪霊の支配から私たちを救い出し、神様の御心に生きるようにとしてくださったイエス様を見上げることが大切なことを知るのです。


象の絵が出てきました。神様に救われたのになおも、罪の支配下にいると錯覚してしまうのは、サーカスの象が小さな時から鎖に繋がれ調教されているとやがて大きくなっても逃げられる環境にありながら逃げない姿によく似ているということ。


罪から解放されたのに、ずっと罪の鎖に繋がれていた故に、救われてもまるで罪の支配下にあるように生きること。

パウロは「私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちに虜にしていることがわかるのです。私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章23節)

と言っています。神の御心に留まれないみじめな人間であることをパウロ自身が告白しているのです。


しかし、私たち人間はそこに留まっていてはいけない。

パウロはこのすぐ後の24節でいいます。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」と。罪深い惨めな私であるからこそイエスの御名により頼み十字架によって解放されたのだと、「神さま感謝します。憐み、助けてください。」と祈ることができるのです。


イギリスのウィリアム・バークレーという牧師が言ったそうです。

「なぜイエス様がこの悪霊の願いを許されたか。それは豚が2000匹崖から落ちる姿をこの男の人に見せたかったからではないだろうか。あなたは解放されたのだよ、と教えたかったからではないだろうか。」と。


イエス様の隣で崖の下になだれ落ちてゆくおびただしい数の豚をただただ眺めていたこの男の人の姿を想像すると、心熱くなります。解放感と共に、イエス様の眼差しに「あなたは尊い人なのだよ。」という温かい愛のメッセージを感じていた事でしょう。

悪霊の支配下から解放され、救い出され、私たちは天のいのちの書に名が記されている!それ故に喜び、主に導かれながら歩んでいきたいです。


「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43章4節」


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