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「信じる者に」*第二サムエル記4章

更新日:2023年7月5日



紫陽花も薔薇もまだまだ頑張っています♡日曜学校のゲームタイムは、チームに分かれて、お題として出た一文字から思いつく言葉をみんなでできるだけたくさん書き出してゆく、というもの。大人も知恵の限り!?を尽くして子どもたちと競いました😆結果「面白いで賞」と「ナイスで賞」は大人が総嘗の結果となり😂大爆笑で終わりました。

牧先生のお話は「みんな誕生日にプレゼントもらうと嬉しい?」するとあちこちから、ワクワク「うん!嬉しい!何にしようかなーって迷い中😆」という可愛い返事。

「では。もしもすごく欲しくてリクエストしてもらったプレゼントが、盗まれたものだったり、悪いところから来たものだって知ったらどう?嬉しい?」。

え・・・😞一同シーン・・・。「嬉しい」「うれしくない」と複雑な返事。

今日のお話は先週のお話に続いてダビデさんの元にきた人たちのお話です。


礼拝で同じ箇所から語られますが「主が報いてくださる」と題してメッセージでした。

❶イシュボシェテの最期


ダビデ家は繁栄し、サウル家は衰退してゆく、その過程で実権を握っていたアブネルが殺害されました。イスラエルの11部族はイシュボシェテを王としていましたが、王自身と民全体はアブネルの死により、すっかり気落ちしてしまった様子が書かれています。(1節)


指導者がいなくなった時にその団体が弱体化してしまうということはよく聞く話です。教会も然りです。人に頼ると揺れることがあります。

しかし、忘れてはならないのは、教会は「人」でなく「神」によって建っているということ。エペソ1章22〜23節にはこのようにあります。

「神はいっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」


パウロは私たちはキリストの体の各器官なのだと言いました。しかし、いつしか「人」が中心となるときに、それは本物の教会ではなくなってしまうのだと語られました。

私たちの視点が「人」でなく「キリスト」にあるということが非常に大切なことなのだと。


教会は「神の働き」であって「人の働き」ではない。ということを思うときに、主は御心に応じて教会を聖め成長させるために、人を送り、また人をとられ(ヨブ記1章21節)そして必要なものを十分に備えてくださる方なのです。

ですから私たちは、主に何かをさせていただいたと思うことがあるなら、たとえ他の人から称賛を受けたとしても、それを人でなく神に栄光を帰すことができるようにと隠れたところで見ておられる主に委ねることが必要であり、ただ神様が褒め称えられるように用いさせていただける幸に身を置くことが大切なのです。


イシュボシェテは名ばかりの王でした。王という地位を与えられましたが、自分の無力さを知っており、前にいるアブネルの権力・加護のもとで自分の地位を守ろうと思っていたのです。しかし、神の民を導く指導者にあってそれは決して許されることではありませんでした。ゼカリヤ書4章6節が開かれました。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」

この神の民を率いてゆく指導者としてイシュボシェテが見、頼るべきは「人」ではなく「神」ご自身であったのでした。

 

❷レカブとバアナの蛮行


5〜12節にはレカブとバアナというサウルと同じベニヤミン族の兄弟が登場してきます。

この兄弟は、イシュボシェテを見限り、ダビデについた方が良いと思ったのでしょう、寝ているイシュボシェテを襲い、その首を切り、ダビデの元へ向かいました。


「日和見主義」という言葉が出てきました。この言葉の意味は「形勢を見て、良い方につこうとする人」のことだそうですが、この兄弟は単にダビデにつこうと思っただけでなく、ダビデに評価され好意を得たい、できることなら良い地位を与えられたいと思ってこのような蛮行に走ったのです。


得意気になってやってきた二人に対してダビデはどうしたか。

ダビデは、自分を殺そうと命を執拗に狙ってくるサウル王に対して「神が油を注がれた人だから」というところに立って、2度もサウル王の命を奪うチャンスが訪れたとしても殺しませんでした。それは一途に「生きておられる神を信じているから」に他なりません。


ダビデはこのような「日和見主義者」を受け入れることなく、厳しく処罰したのです。

そのような人は決して信頼することはできないからです。

第一サムエル記22章2節を見ますと、サウルから逃れたダビデの元には、400人の者が集まってきました。これらの人々はダビデを支援し、主に立つ人としてダビデを信頼していました。そしてダビデは彼らと「信頼関係」を基盤として建て上げていったのです。

彼らは共に「神」を見上げていました。

私たちは神の言葉を信じ、一緒にその御業を見ていこうという信頼と信仰によって繋がっているのです。

同じ主を信じ、見上げてゆく人々が一致して、感情を超えて信仰によって結ばれてゆくということ。


ダビデはサウルに追われる中で、辛い荒野での生活を体験して悟ったのです。

一体誰が神を共に見上げゆく人々だろう・・と。

そして彼はやがて自分が王という立場に立たされた時に、どのように神様の御心をを実現してゆくか、どういう国を建て上げるか、どういう人と共に建てあげるかを考えていたでしょう。

教会も同じです。神を愛し、神に期待する人が共に主を見上げて、主の導きを信じて歩んでゆくのです。


神信仰に立つダビデにとり、日和見主義者という一貫した信念の見られない人々は、自分とは相容れない、受け入れ難い存在だったのではと語られました。不当な手段によってダビデに気に入られようと自分の主君を殺した二人の兄弟はこのようにして厳しく罰せられたのでした。


ダビデは9節でこのように告白しています。

「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった」

ダビデのように告白する時に、私たちはどのように歩むことがふさわしいか。

困難に直面すると自分の思いや考えで動いてしまいやすい私たちです。しかし、そうでなく全てを神様に委ね、神様に祈り、解決と救いを待ち望み期待して歩むということはとても大切であると語られました。それは決して神様任せなのでなく、最善の選択なのだと。


教会は信仰の共同体です。使徒の時代に主に従う者たちは「道の者」と呼ばれました。やがて 、いつもキリストのことばかり言っていると「キリスト者」=クリスチャン「キリストばか」といわれるようになりました。

私たちはいつもキリストを見上げ、神が何を求め、願われているのかを共に膝をかがめて熱心に祈り求めていくのです。昔はこうだった、周りはどうか、ではない。今、「神は何と言われているのか」と。


主に期待する一週間でありますように!


「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。ヨハネ20章27節 聖書」

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