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「神様の憐れみ」*第一サムエル記31章



今日のCSは、牧先生のお話。先週の礼拝メッセージをさらにわかりやすくお話ししてくれました。ダビデさんのように困った時に、お祈りして神様から助けをいただける人生。感謝です。


今日のメッセージは第一サムエル記の最後です。「サウル王の最期」と題して31章より。


私たちは地上で生を与えられている期間、どのように生きるか。

❶悔い改めを求められていませんか?

1節でイスラエルの民がペリシテ人に追われ、ギルボア山で兵士の多くが命を落とし、サウルの3人の息子も殺されたことが記されています。


ペリシテ人の攻撃はサウルに一極集中。射手たちにより、大きな痛手を負ったサウルは自害しました。これまで、執拗にダビデを追いかけ苦しめたサウル。ダビデはそのサウルが落ちぶれても、神様が選ばれた王であるが故に彼の命を取ろうとしなかった。祝福を失っても不思議なように大切に守られていた命であったのに、本人は自害してしまったのです。


 全ての人は神の許しの中で生を与えられている、ということ。そしてその中で、悔い改めるチャンスが何度も与えられているのだと語られました。

サウルにしても、彼が誤った選択をしている中で幾度となく悔い改める機会を神は下さっていた。しかし彼の人生は最後まで神でなく、人を恐れた人生でした。

王であるのにこんな恥ずかしい死に方をしたら、後世にまで語り続けられてしまうだろうーサウルは人を恐れ、自害の道を選んだのでした。


私たちは、神の前に悔い改める心があるだろうか。何を大事にし、何に従い生きているのだろうか。

ことに日本は「恥の文化」と言われます。人目を常に意識し、気にする文化の中で、失敗して人に笑われたくない・・・と。

しかし、たとえ失敗したとしても、神様の前に悔い改め、委ねるときに、神様はそれを大きな益に変えてくださる。それすらも用いてくださるお方であることを知るのです。


黙示録3章にはイエス様がラオディキアの教会に言われた言葉があります。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。あなたは自分は富んでいる。豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実は惨めで、哀れで、貧しくて、裸であることが分かっていない。わたしは、あなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。

わたしは愛する者をみな、叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。誰でも、わたしの声を聞いて、戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする。」


イエス様のお言葉に応答して悔い改め、己を低くし、主の恵に与る者とされたいです。


❷神は信仰者を辱めることはなさらない。

サウルと息子たちは亡くなりました。ペリシテ人たちはサウルの遺体を見つけ、ベテ・シャンの城壁にさらしました。ところが、そのサウルの遺体に対するペリシテ人たちの仕打ちを聞いて立ち上がったものたちがいました。

ヤベシュ・ギルアデの住民です。彼らの中の勇士たちはヤベシュ・ギルアデ→ベテ・シャンまで20㎞の道のりを夜通し歩いてサウルの遺体を、命懸けで引き取りに行きました。

彼らによってサウルの遺体は大切に埋葬されたのです。


なぜ彼らはそんな危険を冒してまで、サウルを思い大切に葬ったのか。

それは・・・と開かれたのが、第1サムエル記11章でした。

かつてヤベシュ・ギルアデの人々は、アンモン人に攻撃されそうになり危険な目に遭いました。そして勝ち目がないために必死に和平条約を求めましたが、敵のアンモン人たちは、「ヤベシュ・ギルアデの皆が、右目をえぐり出すならば平和条約を結んでやろう」と、とんでもない条件を出してきたのです。。ヤベシュ・ギルアデの人々は嘆き、悩みに悩み7日間の猶予をもらって、イスラエル全体に助けを求めました。その時に立ち上がったのが、サウルだったのです。そしてこの戦いに勝利したサウル自身も王としての人生を踏み出していったのでした。

 

ヤベシュ・ギルアデの人々は、このサウルの愛を、恩を忘れなかった。そして受けた恩になんとか報いたい、お返ししたいとずっと願っていた人々だったのです。

 彼らによって、サウルの遺体は野にさらされることなく正式に葬られました。

神の憐れみを思いました。神様が召してくださったのに、抗い続け、悲しませ、選択を誤ってしまったサウル。悔い改めることのなかったサウル。このサウルの人生の最期を神様が省みてくださったこと。神様の憐れみを思います。

 

このサウルの人生とは正反対の、いつもどんな困難な中でも主を求め失敗しても悔い改めて主の元にかえり、主のみことばを慕い求めたダビデを思います。

彼の人生は決して平坦ではなく、むしろ試練の連続だった。しかし、ダビデはいつも神の言葉を第一に求め、「礼拝」を何よりも大切にしたのです。

ダビデ人生は主が共におられる幸いな平安な人生でした。


神に愛され、導かれている者として、私の歩みは、サウルなのか。ダビデなのか。

第一サムエル記のみことばと、深い学びを主に感謝します。


「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように

神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。詩篇42篇1節 」聖書

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