礼拝のみことばは「守る者、殺す者」と題して第一サムエル記22章より。
サウルから逃亡するダビデは、逃げるのに必死で神様に頼ることを忘れ、自分の力に頼り、自分の知恵で動き失敗しました。それが大きな悲劇を生むことになりました。
しかし、その自分の弱さに気づき、悔い改め、もう一度神に全幅の信頼を持って進むダビデです。
❶ユダの地に帰ったダビデ
ダビデはアドラムの洞穴に避難します。これは身を隠すには格好の場所、自然の要害です。
この知らせがダビデの家族にも伝わり、兄弟や両親もサウル王から逃げるようにして彼のもとにやってきます。また、ダビデのもとには、サウル王権の下で待遇の良くなかった人々、サウルでなく、ダビデを王としたい人々がダビデに人生を懸けようとして集まってきました。
アヒメレクのところにきた時には、ダビデは一人ぼっちで、自らも過酷な逃亡生活を覚悟したに違いありません。ところが1章またぐだけでこのダビデにもとには400人もの人々が集まっており、神様がこの集団を与えてくださったことを知るのです。
私たちも、たとえ置かれている場所において一時的に孤独を感じたとしても、なぜなのだろうと苦しみを覚えるようなことがあったとしても、神を信頼する者を神は捨て置かれないこと。その歩みの中で祈り求める時に、必ず、必要な人や財を与えてくださるお方であることを知るのだと語られました。
この先、第二サムエル記を見ると、この400人の中から、後にダビデの下で活躍する勇士たちが何人も出てくることを見るのです。神様はダビデの逃亡生活の初期の頃からそういう人々を与えてくださっていた、そのことも知るのです。
さて、4節でダビデはモアブの王のところに行ったと書かれています。
モアブに行った理由として、ダビデのルーツを辿るとルツがおり、そのルツの出身地がこのモアブであったのだと語られました。
そして、この四百人の中には預言者もおり、ガドという預言者を通して神様がダビデに語られたことを見ます。
「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」と。
聖書は「それで、ダビデはそこを出て、ハレテの森へやってきた。」と記します。
人の目から見れば、洞穴やモアブの地にいた方が、安全であったでしょう。
ユダに戻れば、至る所にサウルの配下がいて、多くの兵士たちが血眼になってダビデを探しているのです。しかし、神様がユダの地にとどまれと言われるのであるならばと、命を狙われたとしても主に従うダビデの従順な姿をここで見るのです。
神様の成さろうとすることは、私たち人間の知識や理性ではとても理解できないことであり、しかしその時には理解できなくても従うという従順を神様は求めておられるのです。
これはイエス様の受難の道のりを思い起こさせます。
イエス様がなぜイスラエルにお生まれになったのか。イスラエルにおいて、イエス様は宗教指導者たちに疎まれ、意地悪され、ついには十字架にかけられた。召されるとは、用いられるということであり、神の栄光がそれを通して表されること。それゆえに、イエス様は十字架に向かって突き進んでいかれたのでした。
サタンはイエス様が地上の王としてとどまるようにと何度も何度も働きかけました。しかし、危険であっても、イエス様は神が召されたゆえに十字架に突き進まれたのです。
私たちも、つい自分の思いや考えで「ここはダメ」「ここはいい」と判断しがちです。しかし、「神がそこに私を置かれたから」と 神の栄光を表すために、困難と思えても、神のご計画と目的を求めて御心に従うときに、主がそれを喜び、必ず栄光を表してくださると信じて歩む時に平安が与えられ前進することができるのです。
アブラハムのことも語られました。
ヘブル11章には「信仰によってアブラハムは相続財産として受け取るべき地に出てゆくようにと召しを受けた時に、それに従い、どこに行くのかを知らずに出てゆきました。」と書かれています。
アブラハムはメソポタミア文明のウル第三王朝において裕福で安定した生活をしていた人物でした。しかし、神様から声をかけられ、「この地を出て行きなさい」と言われた時に、行き先も知らずに主に従い、出ていって「あなたの子孫はこの空の星、海の砂のようになる」という神様のお言葉を握って進んでいったのです。
神が出ていけと言われたら、出てゆく。名声・名誉でなく、ただ、そこにいって主に仕える。その信仰者の上に全てをよくご存知の主の栄光が表されてゆくということを私たちは覚えて行きたいです。
❷私たちの不用意な言葉が人に被害をもたらすということ。
サウルに追われ孤独であったダビデには多くの協力者が与えられて行きました。ところがそれとは真逆に、サウル王からはどんどん人が離れていきます。そして、それはサウルの不満となり、彼の口からは愚痴と不平ばかりが出てきます。6節には「タマリスクの木の下で、サウルが槍を手にして座っていた」と書かれており、
それは柳の一種でピンクの花をつけている木であっただろうと、語られました。
その木のしたで、そばに立っている家来たちにサウルが愚痴をこぼし始めるのです。
長い7〜8節を一言でいうと「誰も俺のことをわかってくれてないじゃないか!」ということだと語られました。息子のヨナタンでさえ、ダビデの側につき、それさえ誰も教えてくれなかった!とサウルはすっかり被害妄想と自己憐憫に陥って、ブツブツブツブツいうのです。
人は神様との関係が良好で祝福されるときに、不思議なように他者との関係も良好となり祝福されてゆきます。ところが、神との関係が悪くなると、それに比例するように人との関係も断ち切られてゆくのです。
さらには正しい物の見方もできなくなり、自分の周りの人との関係も悪くなって行きます。
そんなところに擦り寄って出てきたのが、あのドエグです。
王に気に入られたい、その一心で、これは信頼を得るチャンスだとばかりに出てくるのです。
アヒメレクのところで、「主にとどめられていた」ドエグ。
彼が、祭司アヒメレクがダビデにパンを与え、剣を与えたことを報告します。
神様はいつも私たちをご覧になってくださっているけれども、悪魔も実は同じように私たちに常に目を凝らして、鋭く見張っており、もしも神との関係に少しの隙間でもできようものならば、さっとその隙間に入り込み、神と私たちの関係を引き裂こうと狙っているのだと語られました。
そして、「言葉」も巧みに用いるのだと。
❸殺すものでなく、守る者に。
ドエグの「言葉」によって祭司たちは、捕えられることになります。また主の立てられた祭司たちを恐れもせず、サウルの命令通りに、彼らを殺したのもドエグです。
このような恐ろしいドエグを、なぜ神様が「引き止められていた」のか。(21章7節)
主の前に豊かな憐れみを持って仕え、祝福された神の人々がこの様な悲惨な目に遭ってしまったのはなぜか。
道を歩きながらも、考えても考えてもわかりません。
分かっていることは、主の側にあるものたちを主は愛し、ご自分のものとしてお取り扱いくださっている中で起こっているということ。選ばれしダビデの生涯の汚点となってしまう不信仰が招いてしまったことなのか、ダビデが22節で「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、彼がきっとサウルに知らせると思っていた。私があなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ。」と言っています。
この祭司たちの死はダビデにとって、決して戻ってはいけない不信仰を心に強く戒められるものとなったと思います。
神様のなさることは人の理解を超えたことなので、わからないことはわかりませんが、
ダビデは、たった一人逃げてきた、アヒメレクの息子のエブヤタルに言います。
「私と一緒にいなさい。恐れることはない。・・・私と一緒にいれば安全だ。」と。
神様が共にいてくださる者に、恐れはない。必ず主が守ってくださる。
どんなに危険で先が見えないところに見えても、主が共にいてくださるがゆえに安全であること。ダビデの信仰告白、主に頼るがゆえに与えられる平安を自分の信仰告白として今週も歩みを導かれたいと思います。
「私は、神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく 神の恵みに拠り頼む。」詩篇52篇 8節 聖書
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