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「信仰の復興」*第一サムエル記21章1〜15節


二宮のあちこちで、ツバメが飛ぶのを目にすることが多くなりました。ウグイスの鳴き声や可愛い鳥の鳴き声があちこちで響き渡り、神様の造られた被造物の素晴らしさにしばし心が安らぎます。アイリスやラナンキュラスの花も綺麗です。鳥も花もイエス様が愛され、人々に語りかけられた言葉を思い起こします。5月のみことば・壁面を掲示板に・・。主を知らない方々も、主に目を上ぐ、そんな春となればと祈りつつ・・・。


みことばは、第一サムエル記21章より「偽りの人生」と題して。


❶ダビデを助けたアヒメレク


ダビデはサウル王から命を狙われ、逃亡生活に入ることになります。

準備する暇などなく、着の身着のままで逃げました。行く当てがあるわけでなく、頼れる人もなく、食べることもままならない生活へと突入する、そんな試練の中でダビデが「偽る」ことをせねばならなかった、そんな箇所です。


ダビデが行った先は、当時の都サウルのギブアからベツレヘムへ向かうまでの途中の道にあったベニヤミン族が支配する「ノブ」という町でした。ここは、以前神の幕屋があったシロが敵との戦いの際に破壊された後、短期間の間幕屋が置かれた町であったと語られました。幕屋があったということは、そこで多くの祭司が仕えることになり、「祭司の町」とも呼ばれていたとのことです。


ここにダビデがやってきたことを、アヒメレクは訝しがり、「震えながらダビデを迎えて言った」(1節)とあります。王位継承の可能性があり、高い身分となった王の婿でもあるダビデが、お付きの供を一人も連れず突然の訪問です。異様に思うアヒメレクに対して、ダビデは王から特令のために一人でやってきたと答えるのです。王から命を狙われていると正直に伝えることのできなかったダビデはそのように偽り、空腹を満たすためにパンをくださいとアヒメレクに頼みます。


このアヒメレクの元には、「臨在のパン」すなわち、神に捧げられたパン、祭司のみが食することのできるパンしかありませんでした。

いくら、戦士であり王に属する者であっても、祭司でなければ不用意に、神に捧げられたパンを食べることは律法で禁じられていたのです。


しかし、このアヒメレクという祭司は、ダビデの差し迫ったような特別の事情を考慮しながら、ダビデにこのパンを提供しています。

ここで、新訳のイエス様のお言葉が引用されました。マタイ12章3節に、イエス様と弟子たちが旅の途中で空腹だった時に、弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことが記されています。


パリサイ人たちが、安息日にそのようなこと・労働をしてはいけないのではと厳しくイエス様に言い迫ってきたときに、イエス様が引用されたのが、このアヒメレクの箇所だったのです。


イエス様は人の基本的欲求を満たすことは祭司の規定よりも優先されなければならないと、規則は大事だけれども、想定していないことが起こった時に、どうするか。神は私たちに十戒を与えられたけれども、そもそも律法とは人を窮屈に束縛して枠の中に入れるためでなく、人を生かすために神が人に与えられたものであるということを話されるのです。


アヒメレクはそれをよく知っていた人であったこと。律法においては肯定されていなかったことも、空腹でそれを満たさねばと自分を頼りにしてきたダビデに対して憐れみの心を持ちそれを重視したということ。


律法を人に与えた神であるイエス様が、そのアヒメレクのやったことは問題ないのだと言われたのでした。神の律法を杓子定規に受け止めて、憐みの心を失ってしまうことを神様は望んでおられず、人を生かすものとして与えられた神様のお心を理解できるように、神の民として、みことばを受け止め、ふさわしく整えられて行けるように・・・と教えられました。


❷信仰が揺らいだダビデ


ダビデがこの臨在のパンを受け取る際に、それをじっと見ていた一人の人がいました。

エドム人ドエグという人です。エドム人は歴史を遡ると、ヤコブの兄エソウを祖先とする民族でした。弟ヤコブが兄を騙し、祝福を奪ったことで兄エソウはヤコブに対して怒り、敵対心を燃やしました。中東の歴史は聖書の歴史に起因しているのだと語られましたが、

ドエグもそのような民族の感情を受け継ぎ、教育を受けてきたのかもしれません。おそらく戦争があり、サウルが捕らえた捕虜の中から、ドエグは、牧者の長という身分も与えられていたのでしょう。この幕屋に来たのは、サウルの元で働くために半ば嫌々来ていたのでは?と語られました。神様に仕えたいという思いでなく、義務でそこにいたのです。


聖書は彼がたまたまそこにいたのでなく、「主の前に引き止められていた。」と記します。

主の御計らいの中にあってのことです。


彼が陰で、ダビデの様子を見守る中、ダビデは、パンの他にも「武器」をアヒメレクに求めるのです。


なぜダビデはそのようなものを求めたのか。かつてゴリヤテと対峙するときもまっすぐな信仰を持って「この戦いは万軍の主の戦いだ!主が共におられる!」と武器ひとつもたず、たった一つの石投げと小石をもって大男ゴリヤテ戦士に向かって行ったダビデでした。


ところが、このとき、アヒメレクのところにきたダビデにはその信仰を見ることができません。食べ物を提供してもらい、とりあえず聞いてみよう。「武器はありますか。」

この時のダビデが、サウルに追われて、自分の身を守るために必死であり、心細く、信仰よりも目に見える助けを掴もうとした、そのような弱さの中に身を置いたことを思うのです。


「主が共にいる」のに、ゴリヤテとの戦いの時だけでなく、サムエルから油注がれたときから、神の臨在溢れる人であるのに、この孤独で危険な試練の中で、ダビデがその信仰に立つことができなかった、彼の揺らいだ信仰を見せられるのです。


アヒメレクはそのダビデにゴリヤテの剣ならある、と差し出します。このようにアヒメレクに対して、正直に言えず、嘘に嘘を重ねて、事情を隠し「信仰」でなく、「自分の立場や能力」を持って人を利用することが後々何を引き起こして行ったか。ダビデは後になってこの自分の行動を後悔することになります。


自分の弱さを受け止められず、それを隠すために偽り、偽りに偽りを重ねてゆくのでなく、

正直に自分の弱さを受け止め、神様にそれを告白し、助けを求めるときに、神様はその弱さをも用いてくださり、そこから、神の働きが始まるのだと語られました。


神は真実な方であること。この神の恵みの中に生かされる自分もまた真実な光の内に生かされていきたいと願わされました。


❸おかしくなったように振る舞ったダビデ


追い詰められたダビデは「ノブ」から「ガテ」に逃れます。

ここはペリシテ人アキシュ王が支配していた町で、敵地に行けば、サウル王の手から逃げられると考えたゆえであろうと語られました。

そんなダビデですが、イスラエル軍の長として戦う勇ましい姿を目にしたこともあるペリシテ人の家来たちは、彼を疑い捕え、王の元に連れて行きます。


そこでダビデがどのように危険を切り抜けたか。ダビデは、悪霊に取り憑かれたようにふるるまい、気が触れてしまった人のように門の扉を傷つけたり、髭によだれをたらしたりと迫真の演技を王と家来たちの前で披露し、ことなきを得るのです。(悪霊に取り憑かれたサウル王をなだめるためにハープを弾きながら、ダビデはその様子をよく観ていたのだろうとも語られました・・・)


この時謳った詩が詩篇の56篇4節と34篇に記されています。

「神にあって、私はみことばを褒め称えます。神に信頼し、私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。」

「私が主を求めると主は答えてくださった。全ての恐怖から私を救い出してくださった・・

正しい人には苦しみが多い。しかし、主はその全てから救い出してくださる。主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、折られることはない。・・・」


演技は人を騙すことでは?と信仰が疑われるように思いますが、このみことばを読むときに、決してそうではなく、「ノブ」の町から「ガテ」に行くまでに、ダビデが神への信仰を取り戻したことを知ることができるのです。


自分を信頼するのでなく、全てをよくご存知の神様に自分を委ねること。神の手の中に立ち返ること。それによってダビデはこれからしばらく続く逃亡生活に平安と勝利を与えられ、神に委ねることがどんなに素晴らしいことであるかを体験してゆくことになります。


共にいてくださる主に信頼しつつ今週のあゆみも支えられます様に・・・・

「若い獅子も乏しくなり、飢える。しかし、主を求める者は良いものに何ひとつ欠けることがない。」詩篇34篇10節                聖書



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