先日、チラシを見てくださったからか、家に飛んできたので・・・とカブト虫を届けてくださるご近所の方がおられました。夏休みに入り町のそこら中で、虫を探している姿の子どもや親御さんを見かけたりします。もうすぐクワカブ教室。久しぶりに短時間ですが感染に気をつけながらの開催です。楽しみです。
講壇のお花は我が家と教会のお花を摘んで・・。ダリアやバラ、ひまわりにホイホック。この暑さの中、綺麗に花を咲かせている姿にすごいなあと感動しながら共に主を褒めたことでした。
日曜学校は夏休みプログラムで、映画会。そして1か月かけて暗唱聖句を覚えるチャレンジがスタート!ファイルも可愛くデコレーション!柔らかい頭と心に豊かに入っていきますように・・・。
礼拝のみことばはローマ書から「人と平和を保つ」と題して。
❶悪に悪を返さない。
あるドラマで有名になった言葉「やられたらやり返す」という言葉が出てきました。
しかしパウロはその言葉とは正反対の言葉「誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」を語りました。
パウロは、キリスト者の振る舞いがそのまま神様の栄光に関係していると言います。
キリスト者は神の不思議なみわざを神の助けにより成す存在であると。
第二コリント8章21節「主の御前だけではなく、人々の前でも正しくあるように心がけているのです。」
第一テモテ3章7節「教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。」とパウロは記します。
神を知らない人々に対して、キリスト者は神の大使、使節・代表者としての働きを(エペソ6章20節)成すということを覚えます。
たとえどのような状況にあっても、世の光・地の塩として塩気を保ち、光を放って生きなさい、なぜなら私たちは背後に神がおられる神の宣伝マンなのだと。
伝道とはなんだろうと考えるときに、それは単に知識を伝えるのでなく、語ったことに真剣に生き、その生き様を見せることなのだと「全人格的伝道」という言葉が語られました。
自分自身がみことばに生きていないのにそれを伝える、ということは難しいのです。
私たちがみことばに真剣に、神様の前に忠実に生きようとするときに、神様は祝福してくださる。その祝福は周りの人に広がってゆくこと。
神様はアブラハムに「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪うものを呪う」と言われました。また、ヨセフが奴隷として働いていた家の主人ポティファルは、ヨセフゆえに祝福されました。後にエジプトの王ファラオもヨセフを通してエジプトの国に繁栄をもたらしていったのです。
みことばに真剣に生き、主を信頼する者を主が非常に喜ばれるということを改めて知らされます。
❷全ての人と平和を保つ。
私たちは、自分に対して悪口や陰口を言ったりする人に対してどのように対応したら良いのでしょうか。パウロは「できる限り平和を保ちなさい」と教えます。相手が悪事をやめようとせず、ずっと続けていくならばそこに平和を作りだすことは難しく、そのために、18節に「できる限り」原文では「もし可能なら」という言葉が入っているのだと
語られました。努力して全ての人と平和を保つことができるように努めなさい。。。と。
イエス様は山上の説教で「平和をつくり出すものは幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と言われました。平和のないところに平和を作り出すということ。大きな大きな主の弟子への課題・・・。
今朝は日曜学校は映画会でした。何の映画を見たかというと「サウル王とダビデ」を観たのです。長い期間サムエル記の講解説教を聞き、子どもたちは毎週のようにひどいサウル王に追われるダビデの様子とその信仰について聞き考えてきました。今日の映画はそれを要約するかのような内容で皆に聞いたら「よくわかった〜」と言っていました。サウルがどんなにダビデを妬み命を狙おうとも、ダビデは「サウルが神に選ばれた器であるから」と命を狙わず、真実な神にその身を委ねるのです。長い期間の講解説教と書きましたが、実際ダビデが追われていたのは12年間。その5〜6年が非常にきつい逃亡生活であったと語られ驚きました。
この長期間の逃亡生活はダビデにとってどんなに苦しかったことでしょうか。敵であるサウルの命を狙うこともできたがそれをせず、ひたすら平和を求め、神を畏れ、必ず導いてくださるご計画があることを信じ、忍耐したのです。
映画会で見た最後のシーンはこのダビデが王となって油注がれてゆくところでした。
主を信頼し、より頼み、そして神を畏れる者に、勝利を与えてくださる神様を拝します。
❸神の怒りに任せましょう。
信仰によって私たちは勝利を与えられたいと願います。しかし実際に敵対してくる人々というのは次々とあらゆる手段を使って攻撃をしてきます。すると私たちの心の中には疲れや自分でお返しをしてしまいたいという思いが出てきます。しかし、パウロはそのような私たちに対して、「自分で復讐するな。神の怒りに任せよ。」と言葉をかけるのです。
神ほど正しく、そして公正な方はおられないのです。
そして、神に任せつつ、愛によって対応しなさい、と教えます。そのことによってその人の頭に燃える炭火を積むのだと。この言葉の意味は、神が裁いてくださるから、ということでなく、そのことによって、その人自身が自分のしている悪いことを恥ずかしく思い、良心が痛むことになるのだから、と語られました。
十字架上のイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈られました。自分を十字架につけたような人々に向かってです。それを聞いていた十字架上の片方の強盗はイエス様に救いを求め赦しが与えられました。(ルカ23章42節)
ステパノが迫害によって石打ちに合い死んだ時。「彼らを赦してください。」と叫ぶステパノの祈りを目の当たりにして後に救われたのは、石打ちをおこなっていた者たちの服番をしていたパウロです。(使徒7章58節)
また兄たちに嫉妬され売り飛ばされたヨセフは、エジプトにおいて大いなる権威を与えられた時に、彼を頼ってエジプトにやってきた兄たちに復讐するのでなく「私をここに遣わしたのは神なのです。」(創世記45章8節)と告白し、神に祝福された者としての人生を全うしました。
私たちキリスト者は祝福する存在として、そのみことばに生きようとするときに、神様が祝福で満たしてくださるということを知るのです。
アメリカの有名な伝道者D.Lムーディーという人の話が語られました。
彼は会う人々に祝福の祈りをしていったそうで、子どもであっても、アル中やマフィアであっても、彼が祈っていくときに、祈られたその人たちは祝福された牧師や、教会の忠実な働き人となったそうです。彼は「リバイバルの一番の近道は、みことばの通りに伝道して、みことばの通りに語ることだ。」と言われたそうです。
自分でやり返すのでなく、主を信頼して愛をいただいて行くこと。自分自身をキリストと共に十字架につけること。
信仰を口にしながらどこまでも「自分」を生かし、そこに生きるのでなく、「自分」に死に、主に従って生きる。そのように変えていただきたいと願わされたことでした。
「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。エペソ6章20節」聖書
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