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「愛するということ」*ローマ書12章9〜16節

更新日:1月25日


日曜学校は先週の礼拝のみことばから、一人一人が一つの体の各器官なのだというお話を先生から聞きました。「みんなが『目』でも困るし。みんなが『足』でも困るよね。」そんな話の後「体の中には、あってもなくてもいい場所なんてないんだよね。一人一人皆違ってそれぞれがとても大切な存在なんですよ。」とお話がありました。「一見弱いと思われそうな爪や眉毛も大切でねー」と聞くと「ぼくの足の爪はあったかな?・・・」と靴下を脱いで確認する場面もあったり。「ぼくも大切な存在なんだな・・」って真剣にお話を聞く姿がありました。😌

工作タイムは今流行りの!?折り紙でコマを作りました。上手に作れましたね。


礼拝は「互いに」と題してローマ書よりメッセージ。

私たちの体において、一つ一つの器官は「神経」によって結び付けられています。キリストの教会において一つ一つの器官である私たちは「愛」によって結び付けられていると言えます。

主からいただいた賜物を持っている一人一人が、その賜物に優劣をつけて、自慢・高慢・傲慢になってしまったら。どんなに優れた賜物を持っていても愛がないなら。それは

何の意味もないのだとパウロは語るのです。


❶愛には偽りがあってはならない。

ここで「偽り」というのは「役者が演技する」見せかけの愛であると語られました。

本当の愛とは、十字架の愛、本物の大いなる愛に根ざす愛であり、それが動機となって表わされてくる愛であること。


❷兄弟愛を持って互いに愛し合うこと。

「兄弟愛」というギリシャ語は「フィラデルフィア」。9節に出てくる「愛」は「アガペー」の愛。つまり神様の愛。神様の愛を知りその中で生かされる私たちは、お互いに兄弟愛をもって愛し合うべきであるとパウロは語ります。

 

アフリカの「イク族」について語られたことは衝撃的でした。この部族は、お互いに話をすることはなく、するとしたら嘘・偽りのみ。獲物を獲るのにもお互いを欺きながら自分だけが良いものをとり、得た獲物は家族に十分分け与えず。それゆえに幼い子どもは死ぬことが多く、老人は死んだら放置されることが多いのだ・・と。非常に刺々しく、殺伐とした動物以下の社会・・・。驚きました。


そして兄弟愛を持ってお互いに愛し合うとは、具体的にどのようであることなのかと考えさせられたことでした。パウロは「互いに相手を優れた者として尊敬しなさい。」と語っています。

愛するとは、へりくだって人を自分よりも大切に思うこと。「この人のためにイエス様が十字架にかかってくださった。だから、私も愛するのだ」と。


❸「望みを抱いて喜び苦難に耐え、ひたすら祈りましょう。」

パウロはなぜこのようなことを言ったのか。世の終わりに向かって人々の愛は冷めてゆき、愛し合って生きることが困難になる時代に突入しています。


「互いに」という時代でなく、「私は」という時代です。

私たちが出てゆく世界は、霊の戦場なのだと語られました。

みことばに真剣に生きようとするほど、戦いを感じます。



戦場というと、心の中に不安が湧き起こってくる気がします。しかし、勝利が約束されている戦いです。そこに目を留め、希望を抱いていくこと。

そしてそのために必要なことが「祈ること」であると語られました。


自分の力では不安は取り去られません。しかし主に祈る時に、そこに平安が与えられます。

また、一人で祈るだけでなく、共に祈る。そしてお互いのために執りなして祈る、祈られる、ということ。


私たちは「個人」としてキリストにより救われた。しかし、信仰生活というものは一人で送るのでなく、教会という「共同体」として、祈りあい、愛しあい、この地上の生活を送ってゆくことを主が導いておられるということを覚えます。

その私たちのために片時も離れず、いつもともにいて祈り執りなしてくださっている聖霊様に励まされつつ、今週の歩みが導かれてゆきますように!


「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ自分のことだけではなく、他の人のことも顧なさい。ピリピ2章3〜4節   聖書」

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