
花も綺麗ですが、春は「虫」ですね。せっせと餌を運ぶ小さい蟻から大きい蟻まで、その働きぶりを見れば何だか励まされてしまうから不思議です。今日は蜂も見つけました。季節の移り変わりの中で被造物の素晴らしさにただただ感動し、創造主なる主を崇めるひとときです。
子ども会は、朝の日曜学校も午後の上映お楽しみ会もワイワイ楽しく過ごしました。みんなヘトヘトになるまで走り、歌い、遊び、そしてお話にじーっと耳を傾けました。
礼拝のみことばは「イエスに従うとは」と題してルカ書より
マタイ28章19・20節で、イエス様はよみがえられ、昇天される時に遺言のように次の言葉を残されました。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父・子・聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」
さて。この言葉の中でイエス様が一番重点をおいておられるのは何でしょうかと問われました。「バプテスマを授け」「教えなさい」などの動詞がありますが、実はここで一番強調されているのは「弟子としなさい」という言葉であり、その他の言葉はこの言葉を補い合うようにして置かれている動詞なのだと語られました。
イエス様は公生涯に入られてから3年半という期間、弟子たち対して「弟子らしくなるように」ではなく「弟子となるように」訓練されていきました。
ここで、「弟子とは何か?」というと、それは「師の生き様に倣って、自分もそのように生きようとする者」なのだと語られました。
イエス様の弟子とは、イエス様が歩まれたように、自分も歩もうとするものであり、イエス様の心を自分の心とする者なのです。弟子となり、弟子として歩めと、主は言われるのです。イエス様は「もしわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負いそしてわたしについてきなさい。」と言われました。これがこの9章のテーマでもあります。
十字架を負って、自分の負うべきものを負い、イエス様についてゆく。それが弟子の姿です。
この57〜62節には3人の人が出てきます。
そしてこの3人の人に、イエス様は釘を刺すようにして「キリストに従う」とはどういうことなのか、弟子の姿を語り、ルカはそれを記すのです。
❶イエスに従う者は犠牲を予期すべきである
3人のうち1人目の人が言いました。「あなたがどこに行かれても私はついていきます。」その彼に向かってイエス様は言われるのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子にはまくらするところもありません。」と。
イエス様は、ご自分についてくる者がいたら、きっと喜ばれたに違いないのに、なぜこんな水を差すようなことを言われるのだろう。そのように思うかもしれません。しかし、イエス様はこの人の心に「確認」されているのだと語られました。
わたしが行くところは、決して良いところばかりではない、と。イエス様はこれから十字架にかかり、人の手に渡されるのです。そのわたしにどこまでもついてくると?それがどんなに難しいことか。この「どこにでも」という言葉はペテロの言葉を思い出させます。
ペテロはたといあなたが死なれてもわたしはついてゆくと言い切りました。しかしそのペテロに向かってイエス様は「あなたはわたしを知らないというでしょう」と関係を否定することを告げられたのです。
ペテロは弱い信仰者ではありませんでした。しかし、苦しい現実に直面したときに、自分では強い、絶対大丈夫!と思っていた信仰が、崩れていってしまったのです。
イエス様の言われる「十字架を負ってついてゆく」ということにはそれなりの覚悟がいるということ、そして「ついてゆく」という言葉の重みをあらためて考えさせられます。
信仰を持つ前と持った後。私たちの歩みの中で、質こそ違いますが、悩みは多くなるのではないでしょうか。しかし、その中にあって主を見上げ、信じてゆこうとする信仰。それはキリストという土台にしっかりと根を伸ばす揺るがない生き方とされてゆくのです。
❷「今」従うということが求められている
2人目の人は、イエス様の方からお声かけがあった人です。
しかし、そのタイミングは、彼にとってよくなかったのでした。
イエス様のタイミングに合わせることができなかった人です。
イエス様が「わたしに従いなさい」と声をかけられるとその人は答えるのです。
「まず行って、父を葬ることをお許しください」と。
当時ユダヤ人の社会では、葬儀は神様の律法を守ることよりも優先されていたそうです。
また父親に対しての尊敬は格別でありました。しかしそのユダヤ文化をよくご存知である主が言われたのでした。当時の葬儀は大変時間のかかるものであったと語られました。
一週間〜一ヶ月、喪に服し、墓に葬り、一年から一年半の後に墓の入り口を開けて、その骨を洗い納める。そのような長い時間を要するものでありました。
ですから、この人がイエス様に従うのは「一年半後でいいでしょうか?」そのようにお答えしたことになります。イエス様は彼にいうのです。
「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と。
イエス様はこのユダヤ人の文化の中に生きられたのになんて非常識なことを言うのかと思ったかもしれません。しかしイエス様は決して非常識になれと言われたのではなく、
自分がやらなければならないことを済ませたら福音のことを考えてみましょう、と言うのは真に「従う者の姿」か、と問われているのです。
自分の優先順位を押し出すときに、最優先とすべき「福音を伝える」ことが後回しになる。
しかし「弟子」とは、師の心を自分の心にすることであり、たとえば落語の世界でもお師匠さんが高座に立つために弟子がやるべきことがあり、その子弟関係の中でも、師匠の考え・やり方が最優先されるのです。
師であるイエス様の思いを最優先にしなければ、弟子ではない、弟子の姿をしたワガママな者でしかない。そうだなあ・・・と改めて考えさせられました。
❸イエス様に従うと決断したら、後ろを振り向いてはいけない
3人目の人です。
彼は「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家のものたちに、別れを告げることをお許しください。」そのように言ってきました。
イエス様はこのように答えられました。
「鋤に手をかけてから後ろを見るものはだれも、神の国にふさわしくありません。」
イエス様、あなたについてゆきます。ただ、故郷を離れるので、別れを告げに行かせてください、というこの人の言い分は日常で言ったら当たり前のことであり、大切なことでもあるように思えます。
しかし、イエス様がここで見られたのは、この人の言葉の背後にある「心」であったということを知るのです。イエス様に従うと言いながら、家の者、他のもの、後ろのものを振りむきながら行くといった常に「後ろ」が気になる歩みです。
子どもの日曜学校で出された写真ですが、多くのランナーのうち一人だけ後ろを見ながら走ろうとしている姿があります。
礼拝では、ランナーが背後のランナーを確認するために振り向いたりするときに速度が落ちてしまったり、止まったりということが起こってくるのだと語られましたが、
私たちは、主に従うというときにどこを見るかというと、ヘブル書12章2節にある通り、
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」
イエス様を見て歩むのです。
ランナーが後ろを向いた瞬間にあゆみが失速してしまうように、後ろを振り向いてはならないのです。
ピリピ3章13〜14節でパウロは言いました。
「私は自分がすでに捕らえたなどとは考えていません。ただ一つのこと。すなわち後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリストイエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」
パウロがすごいと思うのはこれを地でやったということ。そして、この「後ろのものを忘れ」というときに思い出すのはあの、ソドムとゴモラから救い出されて助けられたのに、「振り向くな」と言われた言葉に従えずに振り向いて塩の柱になってしまったロトの妻なのだと語られました。パウロにはそれがわかっていた。それゆえに彼は、前に前にと進んでいったのでしょう、と。
私たちは誰も自分の力でイエス様の弟子となり、従い続けることはできません。しかしその私たちをよくご存知でおられる師匠イエス様は「わたしはいつもあなたがたと共にいる」といって共にいてくださり、負える重荷を預けてくださり導き、支え、助けてくださる方であることを覚えます。
キリストの弟子とされるということ。大きな恵みを覚えつつの歩みとされたいと思います。
「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。コロサイ3章2節」
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