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「福音を携えて」*ルカ書10章1〜7節


つつじが満開です。バラも蕾から大きな花を咲かせてくれました。ネモフィラの花をいただきました。この透き通る青い小さな花は今話題の花なんだそうです。(^ ^)眺めているとなんだか優しい気持ちになる花ですね。


日曜日のみことばは「収穫の主」と題してメッセージ。

先週は「弟子となる者の心得」について学び、この箇所は「伝道者の心得」について書かれています。


❶伝道は皆でするもの


ルカ8章ではイエス様が町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられたと書かれていますが、9章になると、12使徒が神の国を宣べ伝え病人を治すために村々へと遣わされ、そして10章では、72人の弟子たちが選ばれて二人ずつ一組になって町々に遣わされていったとあります。


イエス様の宣教の働きが拡大していることを見ます。

この良き知らせ、福音を伝えるということは、賜物があるなしでなく、マタイ28章においてイエス様が昇天されるときに「あなたがたは出て行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられたように、救いを受け入れイエスは主だと告白する私たち全てに与えられた使命であり、その救われた経験を伝えることなのだと語られました。


神について、人について、キリストについて、罪について。ローマ8章9−10「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるのです。人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」のみことばにあるように、聖書のみことばを通して救われたその経験を話すこと。


イエス様の宣教命令をまともに私への命令と受け止めること。

私たちが今生かされ、用いられ、その場その場において歩みを与えられているのは、実にそのためであり、私たちを通してイエス様の福音宣教が広がってゆくためであるのだと語られました。


この弟子たち72人という数字は世界の民族の象徴であるとも言われているそうです。全ての人に福音が伝えられることをイエス様は願っておられその一端を担うものとして私たちが召されていることを示されました。


❷伝道は神に期待して行われるものである


①伝道は神様の主権の元でなされる

「収穫の主」とあります。伝道を通して魂を導いてくださる神様はご自分の持っている農場へと人を送り出す方であられること。また使徒1章で「聖霊が与えられるなら力を受けて出てゆく」とイエス様が言われたように、それは聖霊によって導かれ成されてゆくということ。


②「収穫は多い」と言われる主

収穫の主が畑に働き人を送るのであり、それは耕されていて働き人が働くだけなのだということ。神様が送る時はそれは不毛の地ではなく、全く準備しておられないところに私たちをポンと置くということはなく、神ご自身がすでに耕してくださっていて

私たちの思いや願いを超えて、神様は期待を持ってそこに備えてくださっているということ。それを受け止め、働いてゆくときに、やがて収穫の実を見ることになるということ。

種を撒くのは神様。それに根を生えさせ、芽を出させ、収穫をさせてくださるのが主であり、私たちは委ねられたことをするだけであること。


③伝道には困難が伴う

10章3節にあります。

「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものである」

いかに困難なことであるかを主が語っておられるのです。

羽鳥明先生の本に出ていたある宣教師のお話が語られました。僻地で伝道していたその宣教師は長くその地で奉仕をしていたけれども、救われる人がいつまでたっても一人も起こされず、やっと訪ねてきたのは、教会に楽器を習いにきた子ども一人だけだったそうです。やがて家族が病気になり治療のために引き揚げて帰国することになった宣教師は、途中の宿で、夜イエス様の夢を見ました。

夢の中で、一人も救いに導けなかったことをイエス様に詫びるとイエス様は「家族が癒されたら、わたしと共にもう一度あの宣教地に戻ってくれるか?」と聞かれたそうです。

その言葉が心にグサッと刺さり、そして「わたしと共に」と言われたイエス様の言葉に喜び、自分はダメ宣教師だと思っていたけれども、そうではない、単独ではなくイエス様が「わたしがあなた方と一緒にゆく」といってくださるのだ、と気づき、やがて彼は宣教地に戻ります。そして、その地で初めての教会が建っていったのでした。

伝道には「イエス様が一緒なのに・・・」と思えるような困難があります。しかし必ず収穫の主が収穫を見させてくださるということを信じ期待して行くことが重要なのです。


❸伝道とは福音を語ること


10章5節に「どの家に入ってもまず『この家に平安があるように』と言いなさい。」そして

10章6節に「そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安はその人の上にとどまります。いなければその平安はあなたがたに返ってきます」とあります。

この平安の子、というのはユダヤ人の慣用語「平和の人」という意味ではなく、「神からの平安にふさわしい人」という意味で使われているのだろうと語られました。


つまり、伝道をするときに、全ての人が平安の子であるかというとそうではないということ。福音をうまく伝えられたから、相手が受け入れるかというとそうではない。私たちがどうかでなく、神様がその人にどのようなご計画を持っておられるかということ。

イエス様の選びの中にある人と出会ったら信仰に必ず導かれてゆくということを覚えるのです。神様の召しと選びがそこにあるということ。


私たちは神様が備えた人々と出会わせてくださいと祈りつつ、「平安の子」が誰かわからないけれども、与えられた人全てに自分ができる精一杯の証をしてゆくことが大切であり

自分でその人や時を定めることなく、収穫の主であられる神様に期待して与えられた機会を用いて福音を語るのだということ。

今週も一日一日を大切に導かれたいと思ったことでした。


「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。第二テモテ4章2節   」聖書



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