11日は第三アドベント。子どもプログラムは、お友達とお菓子の家を作ったりゲームをしたり、「クリスマスの鐘」という絵本の読み聞かせがあったり楽しい日曜日です。
礼拝は「全ての人を照らすまことの光」と題してヨハネの福音書より。
先週は神が人となってくださった受肉の喜びについて、その感動・喜びを感じるクリスマスについて学びました。「イスラエルのみでなく、すべての民のために住んでくださる」という神様のお約束の成就が語られました。
ピリピ書2章6節にあります。「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿を持って現れ、自らを低くして、死にまでそれも十字架の死にまで従われました。」
普通は神である方の基準に上りつめて行かねばならないのに、しかし、聖書の神は降ってきてくださった。その基準をクリアできる力を人間が持っていないために・・。
❶まことの光であられるイエス・キリスト
ヨハネはイエス様のことを「光」と呼んでいます。最初(1章1節〜)は「ことば」でした。
しかし9節から目に見える形で具体的に「光」となって降ってきてくださっていることを記し、それも「まことの光」であると語るのです。
ある人がいつも行き慣れた裏山で迷子になり、すぐに戻れるはずがなかなか戻って来れなくなり、真っ暗な山道で途方に暮れていたときに、ふと目を上げると遠くに小さな家の光を見つけ、その光を頼りになんとか山を下り家に戻ってくることができたという話が語られました。
真っ暗な山道の中で、周りは愚か自分の足元さえはっきりと見えなくなれば、私たちの心は不安に陥ります。しかし光を見出すときに、その光に向かって歩み出すことができる。暗中模索という言葉がありますが、暗闇🟰罪の中でうごめき苦しむ私たち人間のために、すべての人を照らすまことの光としてイエス様がきてくださった。
このイエス様と出会うということが、暗闇の中にある私たちの道がパーっと開かれる経験であるということ。
創世記においてアダムとエバに罪が入った時から、私たちのうちには深い罪の問題があります。ローマ書1章21節には「彼らは神を知っていながら、神を神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです」とあります。
この「暗くなった」という世界。そこには、神の支配や守りがなく、「神が」という主語が取り去られ「私が」「他のものが」というものにすり替わり、それによって自分は守られ、支えられているとしてしまう「神なき世界」だけがあり、一体どうしたらこの暗闇から抜け出せるのか、その悩みの中に苦しむ人間の姿があるのです。
ヨハネ1章18節には「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」とあります。
イエス様は公生涯において、人々の病を癒し、悪霊を追い出し、苦しむ人々を助けられましたが、それだけではなく、むしろ神のことを知りたいと集まってきた人々に対して神についてみことばを語り続けられたのでした。
暗闇の中を歩む人々に、イエス様は繰り返し語られ、神がおられてあなたの人生を支え導いてくださるのだと教え続けてくださったのです。
世にはイエス様以外に「光」のように思える偽りの光がたくさんあります。だからこそ「まことの光」であられるイエス様に心を留める必要があるのです。イエス様だけが私たちを天の神様の元に導くことができるお方であり、そのためにイエス様はこの地上に人となってお越しくださったのです。
❷イエス様を拒絶した人間
私たちを導く光としてきてくださったイエス様。自ら神の特権をお捨てになって降ってきてくださったイエス様。その主に対して11節では「この方は、ご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあります。
なぜ受け入れることができないのか。
そこには「罪」の問題があると語られました
アダムとエバの罪から、私たち全ての人間には「神に逆らう」罪があり、みことばに従えない罪があります。
ヨハネ8章1節には姦淫の現場で捕えられた女性の話があります。
当時の律法学者・パリサイ人たちは、イエス様を妬みイエス様の権威を取り去ろうという魂胆で、この女性を連れてきました。自分達は律法の専門家であり、よくわかっていたのに、イエス様に責任を取らせ貶めようと詰めよったのです。ところが、その彼らに向かってイエス様は言われました。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と。
果たしてどうなったか。年長者から一人、また一人と去って行ったのでした。人生の痛みを知っている年長者から離れていった。
石を投げることのできる人は一人もいなかったのです。
私たちはどうだろうか?同じ場所に立って「石を投げよ」と言われても自分の心を探るときにそれをできる人はいないのです。
周りにいた人の罪はわからないが、皆自分自身の罪を自覚したのです。
まことの光であられるイエス様と向き合うときに、私たちは自分のうちにある罪が見えてくる。そして、罪あるが故に、聖い神様の御前にそれが明るみに出されることに恐れを覚え、それを認めたくないという思いを知るのです。
そのような姿を律法学者やパリサイ人に見ます。彼らはイエス様のお言葉を聞いたときに、悔い改めることをせずに、抗い、さらにはイエス様に嫉妬や憎しみを抱いて、排除しようと群衆を扇動し、イエス様を十字架につけて殺してしまいました。
私たちも同じであるということ。闇は光に勝つことができない。しかし、闇にいることに問題を感じず、気づかない。それが私の姿なのであるということ。
光の中に入れられたのに、また闇に入ろうとする私たちの姿。
黙示録3章14節でイエス様は語ります。
「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
光の中を歩こうとしないなら、いつしか、私たちは心からイエス様を戸の外においやってしまっているのです。心をイエス様によって照らしていただくことがとても大切なのだと語られました。
❸光のこどもらしく歩みなさい。
罪によって神様と断絶していた私たちがイエス様によって神との交わりを回復されるということ、それが神のこどもとされるということだと語られました。
ルカの福音書に放蕩息子のたとえ話が記されています。父の元を飛び出し、身を崩し、どうにもならないところまで落ちぶれて「そうだ、父さんの元に戻ろう。父さんのところにはたくさんの使用人がいるではないか。その一人にしてもらおう」と父のところへ帰ります。
父親はそんな息子を叱り飛ばし追いやったかというと、そうしませんでした。むしろ使用人にと申し出た息子を抱き、大喜びで迎えいれ「帰ってくると思わなかった息子が帰ってきた!」と彼のために宴会まで開くのです。
イエス様はこのたとえ話を通して、神様が私たちをどれほど愛し、悔い改めて天の父である神様の元に戻ってくることを願っておられるかを教えられました。
イスラエルの民は、神様が「わたしにたちかえりなさい」とメッセージを送るために遣わした預言者たちを次々と殺し、ついにはイエス様をも十字架にかけました。
しかし、神様の深い愛は常に一貫しており、抗う私たちが悔い改めて立ち返るなら、大喜びで私たちを迎えてくださるのです。
ヨハネ1章13節には「この人々は血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」と書かれています。
血によって、というのは、血筋によってという意味であり、私たちの救いは血筋や外見の良し悪し、努力や願いによって与えられるのではなく、ただ、神様によって与えられるということだと語られました。たまたま救われたのではない。神様の深い愛と選びによって福音を聞き、ただただ神の恵みによって救いは与えられたのだということ。光の子どもとしての歩みを与えられたことに感謝しつつ・・・・。
エペソ5章8節「あなたがたは以前は闇でしたが、今は主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
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